札幌地方裁判所小樽支部 事件番号不詳 判決
主文
被告人武藤和三郎、同寺井勝夫を各懲役七年に処する
被告人大原英夫を懲役五年に処する
被告人中島正利、同富井誠、同高橋孝子、同柴田正光、同大橋達、同長尾陸奥雄、同福沢嘉子を各懲役四年に処する
被告人土方弘を懲役参年に処する
押収に係る火焔瓶四本(昭和二十七年領第七十八号の六の一乃至三及び同号の十)火焔瓶の破損した空瓶二本分位(同号の七)硝子破片七袋(同号の十一)火焔瓶の口の部分一個(同号の十七)瓶の底一個(同号の五十)瓶の破片一個(同号の五十一)は、いずれもこれを没収する
訴訟費用中証人山岸彰一、同今堀勝美、同加藤昭吉、同鈴木義雄、同紺野芳美、同片山金一、同藤井茂、同土山義明、同清水博、同佐々木薫、同石川幸夫、同二階堂〓、同鳴海良吉(第六回公判)、同鹿取治三郎、同田畑勝則(第七、八回公判)同阿部長道、同〓西進悦(第八回公判)同沢和雄(第八、九回公判)同金沢七四郎、同中村春一、同持本繁治、同林道子、同林キクヱ、同清水欣之助、同安部省吾、同本間正義、同菊地昭夫、同山元芳一(第十五回公判)同藤井貞雄、同今静行、同近藤兼雄、同清水金次郎、同小野昌雄、同飛内トシ、同吉田トネ子、同柴田勝三郎、同岡田輝磨、同大島順治、同大谷和弘、同黒田正美、同上口衛、同五十嵐光一、同熊坂静雄、同真田昭二、同目黒達朗、同須藤マサ、同美馬健一、同本庄昭吉、同本庄福次郎、同本間正治、同本間修昭、同梁取タキ(第二十四回公判)同志田光応、同安藤正義、同佐藤作治、同塩崎礼一、同田中栄三、同郷路静子、同高橋繁夫、同吉田宗吉、同小田良正、同鈴木雲海、同田野勇、同柴田利光、同柴田澄子、同工藤忠雄、同佐藤宏、同〓西力蔵、同安田久男、同丸田勇、同亀谷定義、同長浜清一、同阿部效也(第三十三回公判)同藤川新治、同松本省、同野村清治、同本間正之、鑑定人山本〓徳に各支給した分は被告人武藤和三郎、同大原英夫、同寺井勝夫、同中島正利、同柴田正光、同大橋達、同富井誠、同高橋孝子、同土方弘の連帯負担とし、証人坂田ミツ、同兼成蔵太郎、同木村ミヨ、同神野サヨ、同〓西進悦(第三十八回公判)同田畑勝則(第三十八回公判)同鳴海良吉(第三十八回公判)同沢和雄(第三十八回公判)同会田末蔵、同見神義之、同平田美恵子、同遠藤小平治、同平田靖子、同白岩栄太郎、同梁取タキ(第四十五回公判)同平田ミツヱ、同亀石千里、同阪本金太郎、同高橋裕吉、同岡島新一、同村田均、同鈴木実、同阿部效也(第四十九回公判)同佃司、同成田孝、同山元芳一(第五十回公判)同山本順、同高橋愛子、同山脇清一、同舟橋運四郎、同方波見スヱ、同高橋正典(第五十四回公判)同田村昭、鑑定人村井資長に各支給した分は被告人武藤和三郎、同大原英夫、同寺井勝夫、同中島正利、同柴田正光、同大橋達、同富井誠、同高橋孝子、同長尾陸奥雄、同福沢嘉子、同土方弘の連帯負担とし、証人高橋正典(第五十五回)同実相寺茂、同柴田信子に各支給した分は被告人大原英夫、同寺井勝夫、同中島正利、同柴田正光、同大橋達、同富井誠、同高橋孝子、同長尾陸奥雄、同福沢嘉子、同土方弘の連帯負担とし、被告人大橋達の国選弁護人に支給した分は被告人大橋達の負担とし、被告人土方弘の国選弁護人に各支給した分は被告人土方弘の負担とする
被告人大原英夫、同大橋達を昭和二十五年小樽市条例第七十号違反の点についていずれも免訴する
被告人土方弘は被害者山元芳一に対する傷害の点について無罪
被告人向坂公夫、同中野利夫はいずれも無罪
理由
(罪となる事実)
被告人武藤和三郎同寺井勝夫同大原英夫同中島正利同土方弘同大橋達同柴田正光同富井誠同長尾陸奥雄同福沢嘉子同高橋孝子及び池田一夫はいずれも日本共産党員であつて被告人武藤和三郎は日本共産党小樽後志委員会に所属し、その下部機関の小樽地区委員会を指導していたもの、被告人寺井勝夫は小樽地区委員会の委員長として指導的立場にあつたもの、その余の右被告人等はいずれも小樽地区委員会の構成員であつたところ
第一、日本共産党が昭和二十六年十一月頃当時の社会情勢に鑑み新綱領として民族解放、民主政府樹立のため警察その他の権力機関に対する革命的闘争を展開すべきである旨の指導方針を採択するに及んで被告人武藤和三郎、同寺井勝夫はこれを忠実に信奉し、ともに非合法的手段による対権力闘争を推進すべきであるとの考えのもとに右綱領の趣旨にもとずき機会ある毎に右被告人等及びその他の党員に対し指導を重ねていたため右被告人等を含む小樽地区委員会所属の大多数の党員は警察その他の権力機関に対する非合法的な闘争を通じて革命の実現を促進するのが党員に課せられた当面の目的であるような考えを抱く傾向になつて来た折柄、昭和二十七年七月十三日被告人武藤和三郎同大橋達は向坂公夫、坂本潜外数名の者とともに小樽市南赤岩、〓寿貞方に会合し被告人武藤和三郎を中心に翌十四日吉田首相が小樽駅を通過する機会に小樽地区の党員及び日雇労務者多数を動員して同駅に押掛けその際警察の取締があつた場合は警察官に火焔瓶を投げつけるなどのことを謀議し、これにもとずき被告人大橋達、同土方弘、同長尾陸奥雄等は即日同所において硫酸、ガソリン、塩素酸カリウムを調和配合して火焔瓶を製作し、翌十四日被告人高橋孝子外一名が右火焔瓶を携行し被告人大原英夫、同大橋達、同中島正利、同土方弘、同福沢嘉子及び池田一夫、向坂公夫、坂本潜等は小樽駅に押掛けたものの吉田首相が来道しなかつたため右計画はその実現を見なかつたものであるが、被告人大原英夫、同大橋達、同土方弘、同柴田正光、同福沢嘉子、同中島正利及び池田一夫等はその帰途同市石山町十五番地小樽合同労働組合事務所に立寄り、その際同所において同日午後六時頃同市豊川町豊川会館に集まることの連絡をうけ、かくて同日午後六時頃被告人寺井勝夫同大橋達、同土方弘、同中島正利、同柴田正光、同長尾陸奥雄、同福沢嘉子、同高橋孝子及び池田一夫、坂本潜等は右豊川会館に参集し、その会合の席上被告人寺井勝夫は当日の小樽駅動員の批判をなした後小樽地区委員会の決定した指令として、右被告人等に対し「明十五日は日本共産党創立三十周年記念日に当るので小樽市手宮大映劇場附近において記念演説会を開催し、破防法、再軍備、防空演習、赤旗弾圧等に反対する演説を行うが、右演説会は小樽市公安委員会の許可なしに実施するので、その取締のため警察官の出動は必至とみられるそこで右手宮大映劇場附近において演説会を開催する旨の「ビラ」を同市内に配布するとともに陽動作戦として同市内妙見川附近及び奥沢町方面においても同様演説会を開く旨の「ビラ」を配布して同方面に一部の者を配置して警察官を引きつけ、主力は右大映劇場附近において無許可演説会を強行しその取締のため出動した警察官に対し火焔瓶を投げつけて闘争する」旨の説明をしてから当日の演説者として被告人大原英夫、同大橋達を、無許可演説会取締のため出動した警察官に対し火焔瓶を投擲する投下班として被告人土方弘、同柴田正光、同長尾陸奥雄及び池田一夫を、主力の構成員として被告人中島正利、同福沢嘉子、同高橋孝子及び坂本潜そのほかの者をそれぞれ指名し、その闘争方針として「無許可演説会取締のため警察官が出動した場合は、これに対して先ず投下班が火焔瓶を投げつけて闘争を開始してから主力において本格的闘争に突入する、そして主力の構成員は当日午後四時までに同市手宮公園に集合する」旨を伝えてその賛否の意見を求めたところ、同席していた右被告人等はこれに賛同し、被告人大橋達は演説者として被告人土方弘、同柴田正光、同長尾陸奥雄及び池田一夫は火焔瓶投下班として、被告人中島正利、同福沢嘉子、同高橋孝子等は主力の構成員として右計画にもとづき翌十五日手宮大映劇場附近における無許可演説会を強行して闘うことを決意し、被告人土方弘、同柴田正光、同長尾陸奥雄及び池田一夫は翌十五日正午過頃同市梅ケ枝町漆原正直方に被告人大原英夫及び氏名不詳の者一名と会合して火焔瓶投擲につき打合せを行つた結果、出動した警察官に対しては投下班中被告人土方弘が最初に火焔瓶を投擲する、なお当日使用の火焔瓶は右氏名不詳の者が夕刻までに前記労働組合事務所に持参することになり、被告人土方弘及び池田一夫は同日午後五時過頃同労働組合事務所において、右氏名不詳の者より普通の投薬瓶(アルコール瓶程度のもの)に硫酸、ガソリン、塩素酸カリウムを調和配合した火焔瓶約十二、三本在中の風呂敷包一個(昭和二十七年領第七十八号の八)を受取つて着々その準備を整え、しかして無許可演説会を強行する右計画にもとずき被告人大原英夫、同大橋達、同土方弘、同柴田正光、同長尾陸奥雄、同中島正利、同福沢嘉子、同高橋孝子及び池田一夫、坂本潜等は右火焔瓶包を携行して同日午後七時頃同市錦町二十五番地越前電気商会横の十間通り路上に集合し、スクラムを組みインターナシヨナルを合唱しその後被告人大橋達、同大原英夫は群衆に向つて破防法、軍事基地等に反対する趣旨の演説を行い、その間ほかの被告人等はその近くに右火焔瓶包を置き、ビラを配り、或は手にプラカードを持つて待機していたが、その演説中、演説会場の責任者であつた右坂本潜より、演説会を中止せよとの指示があり、その演説会を打切つて同市石山町三十九番地坂本平治方に引揚げることになり被告人大橋達、同土方弘、同中島正利、同長尾陸奥雄、同福沢嘉子、同高橋孝子及び池田一夫等は右火焔瓶包及びプラカードなどを持つて右坂本方に集つたが被告人土方弘は警察の取締りを虞れ右火焔瓶包を同市豊川町五十一番地本庄福次郎方に預けて再び右坂本方に引返えし右被告人等とともに演説会を中止したことにつき種々批判していた際、被告人寺井勝夫より「何故演説会を中止したのか」「やる気があるのか」などと詰問された結果被告人武藤和三郎、同寺井勝夫、同大原英夫等の党指導部が直接、演説会に参加し、右被告人等とともに再び前記計画にもとずく無許可演説会を強行することになり、茲において被告人中島正利、同大橋達、同土方弘、同長尾陸奥雄、同福沢嘉子、同高橋孝子及び池田一夫は被告人寺井勝夫とともに無許可演説会取締のため出動した警察官に対し火焔瓶を投擲して闘うことについて互にその意思を連絡し先づ被告人土方弘、同長尾陸奥雄及び氏名不詳の者は、ともに右本庄方に到り右火焔瓶包を持ち出し被告人土方弘がうち二本の火焔瓶を取り出してズボンのポケツトに忍ばせ被告人長尾陸奥雄等も亦各一本を所持しなおその包を携え被告人寺井勝夫、同中島正利、同大橋達、同福沢嘉子、同高橋嘉子及び池田一夫等は前記合同労働組合事務所よりプラカードを持つてそれぞれ右越前電気商会附近の演説会場に赴き一方被告人武藤和三郎、同大原英夫、同柴田正光、同富井誠等も亦夫々同演説会場に集合しかくて被告人武藤和三郎、同大原英夫、同柴田正光、同富井誠等は右被告人寺井勝夫等と前記計画にもとずく無許可演説会取締のため出動した警察官に対し火焔瓶を投擲して闘うことにつき互にその意思を連絡し、同日午後十時頃同所において被告人武藤和三郎、同寺井勝夫、同大原英夫、中島正利、同土方弘、同柴田正光、同長尾陸奥雄、同富井誠、同福沢嘉子、同高橋孝子及び池田一夫等はスクラムを組み、被告人大橋達がその列外で音頭をとり、ともにインターナシヨナルを高唱して気勢を挙げ、その後被告人大橋達は群衆に向つて前同趣旨の演説を行い、他の被告人等はその近くに右火焔瓶包を置き、手にプラカードを持つてそれぞれ待機しつつ演説会を強行中、偶々北海タイムス小樽支社の写真記者山元芳一外一名がその現場を撮影したため、それを察知した被告人大橋達が「追え」と叫ぶや、之に呼応して被告人武藤和三郎及び池田一夫等数名が右山元記者を追いかけることなどのこともあつて、同会場は騒然となつたがその後被告人大橋達は池田一夫より演説会場を林屋百貨店附近に移すようにとの連絡をうけ、同日午後十時過頃同市錦町二十五番地林屋百貨店角の十字路上において引続いて演説を行い一方他の被告人等はその附近において右火焔瓶及びプラカードなどを持つて待機しているうち、演説中の被告人大橋達が警察官の出動して来た気配を察知して「来たぞ」と叫ぶや被告人土方弘等数名はそれに呼応して身を構えて闘争の体制をとり、無許可演説会の取締並に右山元記者に対する暴行犯人捜査のため出動した小樽市警察署勤務巡査片山金一が運転し同警察署警邏交通課長今堀勝美が乗つたサイドカー及び同警察署勤務巡査石川幸夫が運転し同警察署勤務巡査部長山岸彰一、鳴海良吉、同巡査加藤昭吉、鈴木義雄、紺野芳美、藤井茂、土山義明、清水博、佐々木薫、二階堂〓、鹿取治三郎、佃司等が同乗したキヤリヤーが右林屋百貨店附近に差蒐かつたところ、被告人土方弘は同百貨店角附近より矢庭に所携の火焔瓶のうち一本を折柄進行中の右サイドカー目蒐けて投げつけ次いで他の一本を右キヤリヤー目蒐けて投げつけてそのキヤリヤーに命中発火させ、その後直ちに被告人富井誠及び同高橋孝子等はその附近にあつて右火焔瓶包より、それぞれ火焔瓶一本を取り出しいずれも右キヤリヤー目蒐けて投げつけて命中発火させ右今堀課長外十四名の警察官の職務の執行を妨害し、その際右鹿取治三郎に対し全治約九週間を要する顔面頸部項部右胸部右上肢右手第二度火傷(一部第三度火傷)加藤昭吉に対し全治約一ケ月半を要する右下肢右前膊左下腿顔面第二度火傷、鈴木義雄に対し全治約一ケ月を要する右下肢右臀部右前膊第二度火傷、紺野芳美に対し全治約一ケ月を要する左臀部左手第二度火傷、清水博に対し全治約二週間を要する頭部顔面第二度火傷、山岸彰一に対し加療約一週間を要する顔面右前膊火傷、鳴海良吉に対し加療約一週間を要する右前膊火傷、佐々木薫に対し通院治療約一週間を要する右膝部擦過創及び項部第一度火傷、土山義明に対し通院加療約五日間を要する左拇指右手掌擦過創及び前頸部顔面第一度火傷、石川幸夫に対し通院治療約五日間を要する右顔面第一度火傷等の傷害を与え
第二、判示第一記載の如く被告人大橋達が同日午後十時頃越前電気商会附近で演説中偶々北海タイムス小樽支社の写真記者山元芳一外一名がその演説状況を撮影したところ、被告人大橋達はこれに憤慨し「追え」と叫ぶや、その背後にいた被告人武藤和三郎及び池田一夫外一名はこれに呼応し被告人大橋達と互に暴行の意思を連絡のうえ直ちに右山元芳一を追いかけ、同市錦町二十五番地安部菓子店附近路上において同人に対し被告人武藤和三郎はその手を抑さえつけ池田一夫はその顔面頭部等を手拳で数回殴打し、他の一名はプラカードの柄でその後頭部を二回殴打しまたその腹部あたりを数回突きあげ被告人大橋達はその顔面を右手拳で二回殴打して、それぞれ暴行を加えよつて右山元芳一に対し加療約一週間を要する顔面後頭部左胸部打撲傷の傷害を与え
第三、被告人福沢嘉子は同日午後十時過頃右安部菓子店前路上において小樽市警察署勤務巡査部長鳴海良吉が判示第一の火焔瓶を投擲した現行犯人として土方弘を逮捕しようとした際右鳴海巡査部長の背後よりそのバンド及右肘を引張をなどの暴行を加えて同巡査部長の公務の執行を妨害し
第四、被告人寺井勝夫、同大原英夫は同日午後十時過頃右安部菓子店前路上において小樽市警察署勤務巡査田畑勝則が判示第三の公務執行妨害の現行犯人として福沢嘉子を逮捕しようとした際互にその意思を連絡し右田畑巡査に対し被告人寺井勝夫はその背後より同人の左腰部を蹴飛ばし、被告人大原英夫は同巡査が右福沢の腕をとつて引き立てようとしているのを引き離すなどの暴行を加えそれぞれ右田畑巡査の公務の執行を妨害し
第五、被告人中島正利は同日午後十時三十分頃同市豊川町九十三番地香生軒理髪店前路上において小樽市警察署勤務巡査田畑勝則及び同巡査阿部長道が判示第三の公務執行妨害の現行犯人として福沢嘉子を逮捕して同市錦町巡査派出所に引致しようとした際右福沢を引致させまいとしてその背後より同女を強く抱きかかえて離さず右田畑、阿部両巡査の公務の執行を妨害し
たものである。
(証拠)
判示冒頭の事実については
一、当公廷における被告人大橋達の私と被告人武藤和三郎、同寺井勝夫、同大原英夫、同中島正利、同長尾陸奥雄、同福沢嘉子、同高橋孝子、同柴田正光、同土方弘及び池田一夫は昭和二十七年七月当時はいずれも日本共産党員であつた旨の供述
一、検察官に対する被告人大橋達の第三回供述調書中、私は昭和二十三年十月頃釧路市で日本共産党に入党し昭和二十五年九月頃小樽え来て小樽の職安細胞に所属し昭和二十六年春頃から昭和二十七年七月十五日まで小樽合同労働組合の執行委員をやつていたし同年春頃から同年七月十五日まで小樽地区労働組合会議の常任委員をやつていた、なお、被告人大原英夫、同中島正利、同福沢嘉子、同長尾陸奥雄及び池田一夫はいずれも党員であつて私の見るところでは昭和二十七年七月当時小樽の党の指導部には被告人武藤和三郎、同寺井勝夫がおり、党の常任としては被告人大原英夫、同中島正利がおりその他に党活動をしていたものには被告人長尾陸奥雄、同福沢嘉子、同土方弘、同柴田正光及び池田一夫、坂本潜がいた被告人福沢嘉子は昭和二十六年三月頃から小樽に来て党の常任として党活動に専従していた旨の供述記載
一、検察官に対する被告人土方弘の第二回供述調書中私は坂本潜の照会で昭和二十五年八月二十五日共産党に入党した旨の供述記載
一、検察官に対する被告人土方弘の第五回供述調書中小樽には職安細胞があり無届であつたので細胞準備会と言つておりこの細胞には私や被告人柴田正光、同大橋達及び池田一夫、坂本潜、向坂公夫、高橋和夫、今などがおり被告人大橋達はこの以外に文化活動を専門にやつており被告人寺井勝夫は小樽地区委員会の委員長であつたが同人も被告人武藤和三郎には遠慮していたようである、なお私も昭和二十六年十月以前は職安細胞のキヤツプをしていたことがあつて、党専従になつてから党から月二百円位貰つたことがあり池田一夫も同様最高八百円位貰つたことがある旨の供述記載
一、検察官に対する被告人土方弘の第六回供述調書中被告人福沢嘉子は地区委員級の人である旨の供述記載
一、検察官に対する被告人土方弘の第九回供述調書中小樽の共産党は昭和二十七年七月頃は被告人武藤和三郎同寺井勝夫及び岡部等が指導部となつており小樽市内の各細胞の指導監督をしていた、その他に常任として被告人大原英夫、同福沢嘉子及び今一義等が主要なメンバーであつた旨の供述記載
一、検察官に対する被告人土方弘の第十回供述調書中私の見るところでは昭和二十七年七月十五日頃は被告人寺井勝夫が小樽地区委員会の委員長であり被告人武藤和三郎は小樽後志委員会に属していて被告人寺井勝夫の兄貴格であると思うし、いずれも吾々のうちでは指導的な役割をもつている同志である、なお被告人長尾陸奥雄は党員であつて会合には時々顔を出していた旨の供述記載
一、第四十七回公判調書中証人岡島新一の私は昭和二十五年中頃日本共産党に正式に入党しその後昭和二十七年中頃まで日本共産党小樽地区委員会に所属していたが私が所属していた当時同委員会で主だつた指導的な人は被告人武藤和三郎、同寺井勝夫、同大原英夫でありそのうち特に被告人武藤和三郎は小樽後志委員会に関係しており時々小樽地区委員会に来て同委員会を指導していたようであり、同委員会の委員長は被告人寺井勝夫でないかと思う、そして被告人武藤和三郎が小樽地区委員会に来たときは被告人寺井勝夫の発言権が薄らぐようなことがあつたと思う、小樽地区委員会の上部機関は小樽後志委員会でありその上部機関は北海道地方委員会である、私が名前や顔を記憶している人で右小樽地区委員会に関係している人は被告人武藤和三郎、同寺井勝夫、同大原英夫、同中島正利、同大橋達、同土方弘、同富井誠、同柴田正光、同長尾陸奥雄、同福沢嘉子、同高橋孝子及び池田一夫等であり私はこれらの人と話し合つたことがある旨の供述記載
一、検察官に対する岡島新一の供述調書中私は被告人武藤和三郎とは昭和二十六年八月頃からの知合であるが同人はその以前より小樽地区委員会の委員で事務局長をしておりその後昭和二十七年一月頃からは小樽地区委員長になつたが同年三月十日頃被告人寺井勝夫が被告人武藤和三郎に代り小樽地区委員長になり被告人武藤和三郎は小樽地区委員会の上部機関である小樽後志委員会の委員に就任しその委員としては小樽地区委員会の会合には余り顔を出さなかつたが被告人寺井勝夫の上になつて同人を通じて小樽地区委員会の活動に対する釆配を振つていた旨の供述記載
一、第三十回公判調書中証人柴田利光の被告人柴田正光は終戦後共産党員になつた、同被告人は本件で逮捕される前日まで私方にいたが私方にいるとき共産党関係の人が私方に出入りしたことがある池田一夫も出入りした旨の供述記載
一、第三十回公判調書中証人柴田澄子の被告人柴田正光は昭和二十七年七月十五日当時は共産党に入つており、平素共産党に共鳴しているような人が来たのを見たことがある旨の供述記載
一、第五十二回公判調書中証人富井信市の被告人富井誠は私の実弟であり同人は私方の階下三畳間を使つておりその部屋には時々男女の友達が尋ねて来ていたし多いときは、三、四人も来ていたことがあり又泊つて行く人もいたようである旨の供述記載
一、検察官に対する梁取タキの第一回供述調書中私は被告人富井方の階下二間を借りて住んでいるが同被告人は階下の三畳間に起居していた、なお被告人武藤和三郎、同柴田正光が出入りしたのを見た記憶がある旨の供述記載
一、検察官に対する梁取利光の第一回供述調書中被告人武藤和三郎、同中島正利、同高橋孝子及び池田一夫は被告人富井誠方に出入りしていた旨の供述記載
一、北海道公安調査局長作成の「日共規約及び五全協関係資料について」と題する書面(日共規約一部添付)
一、押収に係る団体等規正令による諸団体届出綴一冊(昭和二十七年領第七十八号の五十六)及び団体等規正令による結成及び変更届綴一冊(同号の五十七)
によりこれを認め
判示第一の事実について
(一) 前段掲記の事実は
(1)一、第四十七回公判調書中証人岡島新一の私は昭和二十五年中頃より小樽地区委員会に所属し昭和二十六年中頃より同年暮頃まで機関紙配布の仕事をしていた私が取扱つた機関紙は色々あつたが現在「平和と独立」という機関紙と「球根栽培法」という本があつたことを記憶している、「球根栽培法」は共産党の政策を書いたものである、私は同年暮頃から昭和二十七年中頃私が共産党をやめるようになつた頃までの間、国鉄関係で細胞のような仕事をしていた私がやめるようになつた動機は小樽地区委員会のおもだつた人達の被告人武藤和三郎、同寺井勝夫、同大原英夫等と意見が合わなかつたからであつてその人達の考えはあらゆる問題を直接闘争の方向えもつて行く考え方でその闘争というのは実力行動という意味で具体的に言うと余り市民から喜ばれない本件火焔瓶事件がそのよい例であると思う、かように小樽地区委員会で直接闘争の方向えもつて行くという空気は昭和二十六年暮頃以降に強くなつたように感じた、そしてこのような考え方に対し小樽地区委員会に関係している人々のうち多数の人が賛成していた、私はその考え方に対して傍観的な立場をとつていたので被告人武藤和三郎、同寺井勝夫等より批難されたことがある、あらゆるものを実力行動えと動員するという色彩は益々濃くなつて行つた、なお昭和二十六年暮頃には小樽地区委員会に関係している人々はラムネ弾とか火焔瓶とかにつき大体知つていたし、それらのものを作る方法を知つていた人も多数あつた私はラムネ弾については配布した機関誌で見たことがある、そしてあらゆるものを実力行動え動員するという考え方が濃くなつて行くにつれて昭和二十七年一、二月頃のことと思うが小樽地区委員会においてそのおもだつた人達が出席した細胞会議で何時かは武器を使わねばならぬということが強調されたこともある、当時武器としては自分の手、足、棒や棒の先に釘をつけたもの、石ころとか比較的手に持ち易いものが考えられており、火焔瓶も手頃に作られる武器と思う、又あらゆるものを実力行動或は武力行動え動員するという考え方の傾向は上部機関を含めて全体的な動きであつたと言いうると思うが小樽地区委員会は一段と目立つていた、しかし私の知る範囲ではかような考え方は下から盛り上つて来たということではなく特定の二、三人の人が特に強調していたのである、武力行動の武器は労働階級に余りためにならない労働者階級を圧迫する警察、裁判所等の権力機関及び権力機関につながるあらゆるもの例えば職制即ち権力機関の手先に対し何時かは使わねばならないということが強く論議された、なお小樽地区委員会で何時かの活動方針を決める場合には被告人武藤和三郎同寺井勝夫同大原英夫等が指導していたと思う旨の供述記載
(2)一、第四十八回公判調書中証人岡島新一の昭和二十六年暮以降国鉄内に細胞をつくるということで小樽地区委員会で会議を開いたり皆で話合つたことがあり当時は国鉄内にも直接武力闘争に結びつけるという傾向がありそこで国鉄内に細胞をつくるということは小樽地区委員会の武力化の傾向の一環としてなされたと言いうると思う、そしてかようなことを話合つた人達が誰であるかは被告武藤和三郎同寺井勝夫同大原英夫ならば判つていると思う、又昭和二十七年一、二月頃のことと思うが具体的に計画されたというわけではないが例えば列車を顛覆させるとか或は列車の進行を途中で止めるとか又その頃小樽港のガソリソ運搬の列車を顛覆させたらよいとかいうような考えは私達共産党員も持つていたし、そのような話が小樽地区委員会に所属している小樽の共産党員の間でなされたことがある、なお被告人武藤和三郎は小樽地区の会議に出席したりして私達党員を指導していた旨の供述記載
(3)一、検察官に対する岡島新一の供述調書中昭和二十七年(昭和二十六年とあるが誤記と認む)二月頃の午後七時頃から小樽市潮見台町の今一義方で専門部会がもたれ私と被告人武藤和三郎、同寺井勝夫及び今と増田等が参加した際、日共の軍事方針に基き小樽の国鉄に中核自衛隊を組織するという決議がなされた、この会議をリードしたのは被告人武藤和三郎であつた、当時はまだ軍事委員会というものもなかつたが、小樽地区委員会全体の軍事責任者は被告人寺井勝夫であり、潮見台、奥沢等南部の軍事責任者は今一義であつた、被告人武藤和三郎は小樽後志委員として具体的な小樽地区委員会の会合には余り顔を出さなかつたが被告人寺井勝夫の上になつて同人を通じて小樽地区委員会の活動に対する釆配を振つていた、それで前述の如く今方における会合の決議にもとずきその後被告人寺井勝夫が中心になつて当時国鉄小樽車掌区長の松田善吉が部下に対し非常に横暴であるとの非難があつたことから同人をやつつけようと言うことになり、情報を蒐集した結果、右松田が他に移転すると言う情報が入つたので、同人の家財道具運搬の際、布団や荷物に石油をかけて火をつけようと言う計画を樹てたのであつたが、同人が移転しなかつたので実行出来なかつた、そして結局二月下旬頃増田等が松田方の窓硝子に投石して硝子を壊したり塀を破壊したりした、その後同年三月二十日頃の午後七時頃から小樽市石山町坂本平治方で党学校を開き幹部教育をやつたが、その際出席したのは被告人武藤和三郎、同寺井勝夫と私、岡部及び氏名不詳の男三名であつた、被告人武藤和三郎はそのとき議長になり、氏名不詳の男三名はいろいろ党の活動の方針につき指示指導した、その氏名不詳の男が退席してから被告人武藤和三郎が中心になつて同年一月下旬頃党の軍事方針として国鉄列車に「アメ公帰れ」というビラを貼つた事につきその効果等を論議したがその際私は当時の客観情勢からこのような過激な政治スローガンを出すべきではないと言うことを主張したところ、被告人武藤和三郎は真向から反対し「君の考えは間違つている現在の段階では党活の基本方針は武力闘争よりない、あのビラを見て大衆は何れも憤激している、従つて吾々はこれに応えるために闘わねばならない」と主張し、結局他の者も党の独裁者である被告人武藤和三郎の主張を大体において支持した、それで私はその頃から被告人武藤和三郎の指導下における党活動方針に疑問を抱くようになり、結局幹部と意見の対立を来たすようになつたのである、私は被告人武藤和三郎が全く客観情勢を無視した過激な政治スローガンを出して被告人寺井勝夫を通じて小樽地区委員会の活動を牛耳り、その結果本件の火焔事件を起させたのだと考える旨の供述記載
(4)一、検察官に対する被告人大橋達の第三回供述調書中昭和二十七年五月の宮城前メーデー事件などを通じて小樽の共産党員が力で自分を守らなければならないということを考えて来たし共産党もその機関誌である「前衛」「球根栽培法」「国民評論」等或は機関紙「アカハタ」と「平和と独立」等を通じて自衛の必要なことを主張していた、なおこの自衛ということは当時吾々党員の常識として当面の相手を警察とみていた旨の供述記載
(5)一、検察官に対する被告人土方弘の第五回供述調書中札幌で白鳥課長が射殺される約一ケ月位前に内外評論の二十六号と思うがそれに中共のバルチザン活動などの例を引いて吾々も武装をしなければならないという意味の記事があつたが、私はその頃から党員の武装に関する関心が出て来たように思う、白鳥事件以後のことであるが今一義を隊長として四、五人で第一回の中核自衛隊が結成されたが間もなく解散になり、又再編成されたがその時の隊員は私の外に日本名を田中という鮮人や増田某、今一義などで今が隊長であつた、私は被告人寺井勝夫から中核自衛隊員に指名されたのである旨の供述記載
(6)一、押収に係る球根栽培法(昭和二十七年領第七十八号の五二)に、日本共産党が昭和二十六年十月第五回全国協議会において採択された新綱領は「民族解放、民主政府が妨害なしに平和的な方法で自然に生れると考えたり或は反動的な吉田政府が新しい民主政府に自分の地位をゆづるために抵抗しないで自ら進んで政権をなげだすと考えるのは重大な誤りである」と述べて国民の革命的闘争を組織するように訴えているこの論文はこの点を明らかにしたものである、われわれは軍事問題を真剣に取上げそれを行動にうつさなければならない、それなしには新しい綱領を実現することも、このための闘いに勝利することもできないのである、わが党が社会民主主義者の諸党派と根本的に異る点はこの問題をとりあげ明確な目標のもとにこれを実践する点にある、いまや総ての国民はこの問題を取上げることを求めており、これなしには勝利し得ないことを理解している、従つて全党がこの論文を新しい綱領や第五回全国協議会の一般報告とあわせて討議しこれを単なる論文として終らせることなく実践のための武器にされんことを希望する、そしてわれわれは武装の準備と行動を開始しなければならないと題しわれわれに何故軍事組織が必要か、敵の武装力と対抗できる軍事組織をつくることができるか、労働者や農民の軍事組織をつくるにはどうすればよいか、何故抵抗自衛闘争は軍事問題を発展させる環なのか、日本でバルチザンを組織することができるか、われわれの軍事組織はどのような活動をするのか、われわれの軍事科学とは何か、われわれは敵の武装力に対して内部工作をする必要はないか、民族解放、民主統一戦線と軍事組織はどんな関係をもつか、われわれは直ちに軍事組織をつくつて行動を開始すべきか等の項目にわたる軍事組織及び行動要領(一九五一年十月三日)についての記載
(7)一、押収に係る栄養分析表(昭和二十七年領第七十八号の七十三)に「われわれの軍事科学を発展させ広汎強力な国民武装を実現するためには大衆の無限の創意創造に学ぶと同時に、秀れた科学者や技術者による独自の研究と準備を怠つてはならない、この両者が完全に統一統合されてこそわれわれの軍事科学は正しく発展し敵にうちかつ国民武装をつくりあげることができる、この資料の取扱は特別厳重に秘密を守らねばならないが、そのため死蔵したのでは何にもならないから運用については十分工夫されたいとし、なお時限爆弾、ラムネ弾、火焔手榴弾(キユーリー爆弾)等の製法使用法についての記載
(8)一、検察官に対する被告人土方弘の第二回供述調書中昭和二十七年六月頃党から私に小樽市内赤岩の十字路に集れとのレポがあつたのでそこえ行つたら顔見知りの男の同志二人位来て私と三人で山の上の方え約二十分位登りそこでその同志が持つて来た火焔瓶一本を木の根株に投げつけて試験をしたらその火焔瓶はこわれてちよろちよろと燃えた旨の供述記載
(9)一、検察官に対する被告人土方弘の第三回供述調書中小樽市赤岩の山中で火焔瓶の実験をした前日私は坂本潜が向坂公夫より明日火焔瓶とラムネ弾の実験をするから瓶を用意してくれと云われた、そこでその翌日私は自宅にあつたラムネの空瓶二本と四百瓦位入る薬瓶一本を持つて職業安定所稲穂集合所で向坂公夫が坂本潜かに「ラムネ弾に使うカーバイトを買つて南赤岩の植田蒲鉾屋に行つて呉れ、そこにガソリンを預けてある」と言われ小樽市色内町の平松商店でカーバイト三十円位買い、それを持つて右植田方え行つた、それから間もなく氏名不詳の男や坂本潜、向坂公夫、船橋達四郎が来たので、ガソリンを持つて赤岩の〓方に行き、そこで私達は火焔瓶三、四本を作つた、その材料の塩素酸カリウムと流酸五百瓦入一本は右氏名不詳の男が持つて来た、その後その火焔瓶を持つて赤岩十字路のごみ焼物の向いの山中で私が持つていたラムネ弾にカーバイトを入れそれに水を入れて投げてみたが二発共ひびが入つて割れただけであつて誰かが火焔瓶一本を木の根株に投げつけたら瓶が割れて発火した旨の供述記載
(10)一、検察官に対する被告人土方弘の第六回供述調書中昭和二十七年六月頃火焔瓶の実験をしたときのことであるがその火焔瓶を作つたのは氏名不詳の男であつて私と向坂公夫、坂本潜はその作るところをみていた、その際氏名不詳の男は火焔瓶の作り方を説明し塩素酸カリウムは水に溶かして紙に塗るのだが砂糖を少し入れるとやりよいと言つていた、なお当時メーデー事件前進座事件など相次ぐ事件が全国的に起きていた時であり武装の必要が感じられていた時であるから、私は火焔瓶実験に誘われた時も当然の事と思つてそれに応じた、吾々がやつつける敵というのは警察、予備隊、米軍であることが当時吾々党員の常識であつた旨の供述記載
(11)一、第二十一回公判調書中証人真田昭二の私の家は薬局をしているが昭和二十七年六月頃私は店で被告人富井誠に流酸を売つたことがあるがその時同人に流酸を何に使うのか聞いたところ同人は言葉を濁していた旨の供述記載
一、検察官作成の昭和二十七年十一月七日附検証調書の記載
一、押収に係る切株一個(昭和二十七年領第七十八号の七十九)及び硝子破片(同号の八十)の各存在
によりこれを認め
(二) 昭和二十七年七月十三日〓寿貞方における小樽駅えの動員についての謀議がなされた事実は、
(12)一、当公判廷における被告人武藤和三郎の判示の如く七月十三日〓方で翌十四日小樽駅にデモをかけることにつき会議を開いて協議したことは間違いない旨の供述
(13)一、検察官に対する被告人大橋達の第三回供述調書中私は昭和二十七年七月十三日朝誰からであつたか記憶ないが赤岩の〓の家に来るように連絡があつたので職安細胞の会議でもあるのだろうと思い同日午後〓の家え行つたところ既に四、五人の人が来ており間もなく会議が始つた、この会議に出席したのは私と被告人武藤和三郎及び向坂公夫、坂本潜、保利某、氏名不詳の男その他二、三人の男であつた、保利は共産党小樽地区委員会の常任として党活動に専従していた人であり、氏名不詳の男も保利と同じ頃から小樽地区委員会の常任をしている人です、この会議では主に被告人武藤和三郎が発言したのですが翌十四日午後二時半頃吉田首相が小樽駅を通過するのでその際職安に登録している党員は各職安失業対策現場から大衆を動員して駅に集り他の小樽地区の党員も駅に集合し列車が着くと同時に駅になだれ込み、これに対し警察の取締があつた場合には警察官に火焔瓶を投げつけるということで一同もこれを了承し、このことが決つた、そしてその時翌十四日の駅えの動員の責任者は坂本潜であつてホームに入つてからの全体の指揮は私と被告人大原英夫がとることに決り被告人中島正利、同福沢嘉子、同長尾陸奥雄及び池田一夫等も私達と同様駅に行くことも決り私や被告人大原英夫が駅え行く前の連絡場所として色内小学校附近の空地が指定されたそこでそのために火焔瓶を作ることになり私は保利から硫酸二本を買えと云われて二百円を渡され、その硫酸は一定の時刻までに〓方に持参するように云われた、その後私は保利と共に後で判つたが目黒という薬局に行き私一人が店に入り瓶の高さ十五、六糎位の流酸二本を買い、百円札二枚をその場に置いてその侭同薬局を走り出たところ女の人が私に住所氏名を知らせてくれと呼びかけていた、私は途中で保利と一緒になり同人と共に買つた二本の硫酸を持つて赤岩の〓の家え行つたところ既に氏名不詳の三十過ぎの男がおり保利はその人と硫酸を買つて来た経過を話していたが間もなく被告人土方弘、同長尾陸奥雄がやつて来たそして同人等のうちの一人の人が石油鑵より稍小型の経二十五糎位の円筒形の容器に入れてガソリンを持つて来た、そこで氏名不詳の男が病院がよこす高さ十五、六糎位な薬瓶に先づ硫酸を入れたのですが硫酸は一本を薬瓶五本に夫々分けて結局薬瓶十本に硫酸を入れ、硫酸を入れた十本の薬瓶に夫々瓶の肩あたりまでガソリンを入れコルクで瓶の栓をし更に白い粉のついた紙をその瓶の横にあてがつた、その際白い粉のとれていたものもあつたのでその場で糊を塗つた粉をつけ直したものであつた、こうして出来上つた火焔瓶の口は私が蝋づけをして薬が洩れないようにしたその後火焔瓶を実験するため右火焔瓶のうち一本を持つて私は被告人長尾陸奥雄、同土方弘と共に〓方を出て手宮公園え行き旧軍隊の高射砲陣地の跡の箱型のコンクリートの壁にその火焔瓶を投げつけたところ、瓶が破れて発火した、その時作つた火焔瓶は当公廷で証拠品として見せられたものと同じ型のものであつた旨の供述記載
(14)一、検察官に対する被告人土方弘の第六回供述調書中昭和二十七年七月十三日朝私は坂本潜に云われて稲穂安定所え行つて待つていたら坂本潜、向坂公夫が来た、その時坂本潜は私に家で待つていてくれと言うので午後三時頃まで同人方で待つていたが同人は帰つて来なかつたが、その後午後五時過頃私が合同労働組合事務所え行つたら池田一夫は私に対し「君は夕方七時まで赤岩の〓のところえ行くことになつている」と云うので同人に何処でそのことが決つたのかと聞いたが同人は答えなかつた、私は一旦帰宅してから再び坂本潜方え行つたところそこで同人からコルク五、六個と西洋紙の紙包を渡され、直ぐこれを赤岩の〓のところえ持つて行くように言われた、私は紙包は塩素酸加里だと思つたしコルクも前に火焔瓶の実験をしたとき買つたことがあるので、火焔瓶を作るのだなと思つた、その後私が〓方え行つたら右側の奥の部屋で被告人大橋達と以前火焔瓶の実験をしたときいた氏名不詳の二十六、七才の男が硫酸瓶を前に置いて話をしており被告人大橋達は今色内川附近の薬屋で硫酸二本を買つたところ不審に思われたと云つており、間もなく火焔瓶の製造に取り掛り、私もそれを手伝い被告人大橋達はコルクの栓を蝋づけした、この時作つた火焔瓶は十本でそのうち二、三本小型のものがあつたと思うが殆んど四百CCの薬瓶であつた旨の供述記載
(15)一、検察官に対する被告人土方弘の第七回供述調書中昭和二十七年七月十三日赤岩の〓方で火焔瓶を作つたときはいずれも流酸を先に入れてからガソリンを入れたのであつて、硫酸一本を五本に分け硫酸二本で結局火焔瓶十本を作つた旨の供述記載
(16)一、検察官に対する被告人土方弘の第八回供述調書中私が昭和二十七年七月十三日午後七時頃赤岩の〓方え行つたところ被告人大橋達と氏名不詳の男が硫酸を前に置いて話をしていた、すると被告人長尾陸奥雄が石油鑵位の大きさの鑵を自転車に積んで〓方に持つて来た、そして同人は〓からジヨーロを借りてその鑵からガソリンを瓶に入れた、その瓶の大きさは薬瓶二、三本分位入る程度のものであつた、硫酸とガソリンを調合して薬瓶に入れたのは氏名不詳の男で私は新聞紙でその瓶の外側を拭きそれを被告人大橋達に渡し同人がそれをコルクで栓をして蝋づけしたその時作つた火焔瓶は十本であつたが被告人大橋達、同長尾陸奥雄は火焔瓶の燃えるのを見たことがないとのことで右十本のうち一本丈け塩素酸加里の紙を貼りこれを持つて私と被告人大橋達、同長尾陸奥雄の三人で手宮公園え行き被告人大橋が高射砲陣地の跡らしいコンクリートのところえ投げつけて実験したところその瓶が破れて発火した旨の供述記載
(17)一、検察官に対する被告人土方弘の第十回供述調書中私が昭和二十七年七月十三日小樽市赤岩の〓の家え行つたとき被告人長尾陸奥雄は薬瓶十本位を用意しており更に高さ一尺五寸位の丸型の鑵にガソリンをつめて持つて来ていた、皆が薬瓶を見ながら粒がそろつているとか話合つたそのとき被告人長尾陸奥雄がガソリンを二升買つて来たと言つていた、そしてその後火焔瓶を作つたが一人が硫酸を五分の一の分量丈け薬瓶にあけ、他の一人がその上にガソリンを入れた、その瓶には目盛りがあるので五分の一の分量の硫酸を入れることは容易であつた、私は瓶をならべたり拭いたりし被告人大橋達は瓶の口を蝋づけした、結局硫酸二本を使つて火焔瓶十本を作つた旨の供述記載
(18)一、第二十一回公判調書中証人目黒達朗の私の家は薬局をしているが私は昭和二十七年七月上旬頃年令二十六、七才のあまり体格のよくない身長五尺三寸位な一見労働者風の男に一本八十円か九十円かの硫酸二本を売つたことがある、その男は代金として百円札二枚を置いて住所はあとからとか言つて釣銭も受取らずその侭急ぎ足で店を出て行つた、その男の人は被告人大橋達によく似ている旨の供述記載
(19)一、検察官に対する目黒達朗の供述調書中私は昭和二十七年七月十三日頃被告人大橋達に似ている男に濃硫酸五百瓦入り二本を売つたことは間違いない旨の供述記載
(20)一、検察官作成の昭和二十八年一月八日附実況見分調書の記載によりこれを認め
(三) 〓方における謀議にもとずき翌十四日小樽駅えの動員の事実は
(21)一、検察官に対する被告人大橋達の第三回供述調書中昭和二十七年七月十四日午後二時頃私が指定された空地え行つたら間もなく被告人大原英夫、同高橋孝子その他二、三人の男女が来たそのとき私は被告人高橋孝子ともう一人の女の人が買物篭を持つているのを見たので昨日話合つた計画にもとずき火焔瓶が作られたがその火焔瓶を持つて来たなと感じた、私達は右空地から小樽駅え行き被告人大原英夫は一寸遅れて駅に来たこの日各職安の現場から坂本潜が労働者を引率して来ることになつていたのにデモ隊は来ず駅前広場で労働者が散在している状況であり坂本潜は一人で駅に来たが集つたものだけでデモをすることになり吉田首相が乗つて来るという列車が入つたとき私達は駅の構内入口からホームに入つた、駅には被告人中島正利、同福沢嘉子、同土方弘、高橋孝子、同大原英夫及び池田一夫、坂本潜、坂本平治、向坂公夫等がいた、池田一夫はザルに紙を貼つた汽車の絵を書いたプラカードを持つて来ていた、駅え持つて行つた火焔瓶は篭二つに入れてあつてこれから火焔瓶を取り出した党員があり私も出して駅に集つた党員以外の人に渡そうとしたがその人は受取らなかつた、右のように私達は列車が来たのでホームに入つたが吉田首相が来なかつたのでホームから出て解散した旨の供述記載
(22)一、検察官に対する被告人土方弘の第六回供述調書中昭和二十七年七月十四日吉田総理が来るというので皆で小樽駅え押し掛けたが総理が来なかつたので駅で解散した旨の供述記載
によりこれを認め
(四) 同月十四日豊川会館における本件無許可演説会開催についての謀議がなされた事実は
(23)一、当公廷における被告人土方弘の、私は同志から豊川会館に集つてくれと云われ、勿論党員として集つてくれということであつたから、党つまり小樽地区委員会からの指令であるし、党員として昭和二十七年七月十四日午後六時三十分頃豊川会館の二階に集つた、この時来た人は私と被告人大橋達、同寺井勝夫、同中島正利、同長尾陸奥雄、同高橋孝子、同福沢嘉子及び池田一夫、坂本潜等でありその際被告人寺井勝夫は翌十五日に演説会をするということと、その演説会の意義について話をした、演説会というのは当時国会に破防法という法律が提案されており、又北海道で防空演習があるとかいう話があつたし、翌十五日は日本共産党創立三十周年記念に当るのでその記念演説会をやるということであつた、そして被告人寺井勝夫を中心に討論が進められ、その場で決つたことは、演説会をやる場所とその時間、演説者と火焔瓶を投げる投下班云々ということであつてその投下班は私と被告人長尾陸奥雄、同柴田正光及び池田一夫と決まり演説者は被告人大原英夫、同大橋達と決つた旨の供述
(24)一、当公廷における被告人大橋達の、日本共産党員である以上は党規約により統一的な行動をとらなければならないことになつており、昭和二十七年七月十四日の晩豊川会館での会合で翌十五日演説会をやることそして私が演説者に指名されたことは小樽地区委員会の指令ではないかと思う、それを被告人寺井勝夫から私達に伝達されたことになるので、翌十五日の演説会は日本共産党小樽地区委員会の決定にもとずき実施することになつたわけであるから、党員としては当然その決定に従わねばならない旨の供述
(25)一、検察官に対する被告人大橋達の第三回供述調書中昭和二十七年七月十四日私は小樽駅で解散してからその帰途稲穂集合所に立寄り向坂公夫とその日のデモにつき話合い、その後合同労働組合事務所え行つたところ同事務所には駅に来た党員のうち二、三人の男がいた、そして私はここで今晩六時に豊川会館に集まるように連絡をうけた、私はその日午後六時頃豊川会館え行き二階で休んでいたら被告人福沢嘉子、同寺井勝夫、同土方弘及び池田一夫、坂本潜等が来た、今まで大衆動員をやつた後はその行動の批判が行われていたので、このときも当日の行動に対する批判をするのだと思つたところいつものように徹底的な批判もしないで三十分位で終り、結局駅前デモは宣伝不足であつたということで結論は出なかつた、その際被告人寺井勝夫は何か書いたものを見ながら翌十五日の行動について皆に話し出した、その話の内容は要するに翌十五日は日本共産党の三十周年に当るので午後六時から手宮館附近でその演説会をやる、これは無届の演説会であり演説をするのは私と被告人大原英夫の二人だということであつた、その他手宮以外の場所でも演説会をやるという演説会用のビラを貼つてその方え警察官を引きつける陽動作戦の話もあつたと記憶する、なお被告人寺井勝夫は名前を読み上げ、この者は翌十五日手宮公園に集合するように言つてその集合場所としては手宮公園とその他にもあつたように記憶する、これら夫々の場所に集合するのは翌十五日の行動の準備をするためだと思う旨の供述記載
(26)一、検察官に対する被告人大橋達の第四回供述調書中昭和二十七年七月十四日私達が豊川会館に集つたとき被告人寺井勝夫は翌十五日の演説会につき演説者は私と被告人大原英夫であり、演説場所は手宮館附近ということを指示し、これに対し別に質問や意見もなく皆その指示通りやることになつた、そしてこの演説会は無届集会なので警察官の取締があるかも知れないと言つていた、私は十四日の当日小樽駅で警官に投げつけるため火焔瓶を用意したことから翌十五日の演説会に警察官がその取締に来たならばこれに対し火焔瓶を投げつけるであろうと思つた旨の供述記載
(27)一、検察官に対する被告人土方弘の第二回供述調書中昭和二十七年七月十四日午後六時頃より八時頃までの間小樽市豊川町豊川会館二階で会合があつたがその時集つた人は私と被告人寺井勝夫、同大橋達、同福沢嘉子、同高橋孝子及び池田一夫外同志二名位であると記憶する、その際被告人寺井勝夫は明晩、小樽市内の手宮館附近で共産党三十周年記念演説会をやると言つて更にその意義につき再軍備反対、破防法反対、防空演習反対、赤旗弾圧反対、平和と独立に関する話をしてから、レポのようなものを見て私と池田一夫に対し「その際お前とお前は火焔瓶の投下班だぞ」と指名し、私と池田一夫はそれを承諾した、その後私等投下班は明日具体的に相談しようと言つて別れた、その翌十五日正午過頃私は前の晩打合せておいた小樽市梅ケ枝町の同志漆原正直方え行つたが間もなく池田一夫や氏名不詳の同志が来たので火焔瓶を投げる具体的な方法を相談した、そしてその際、演説会をやれば警察の連中はキヤリヤーに乗つて拓銀手宮支店のところから道路の中央を走つて来るし、そのため群衆は道路の両側によけるから、私がそのキヤリヤーに対し真先に火焔瓶を投げつけるという私の意見が採用された、なお氏名不詳の同志が夕方合同労働組合事務所に火焔瓶を持つて来るということで一旦別れ、私と池田一夫はその話通りその日の午後五時か六時頃右組合事務所で氏名不詳の同志から火焔瓶を受取つたのですがその火焔瓶はアルコール瓶位の薬瓶であつてキヤラメルのボール箱に立てて十二、三本位入つておりそれを風呂敷に包んであつた、私はその火焔瓶包をその場において自宅え食事に帰つた、池田一夫はその事務所に寝起している旨の供述記載
(28)一、検察官に対する被告人土方弘の第四回供述調書中、私は昭和二十七年七月十五日合同労働組合事務所で池田一夫とともにその場にあつた材料でプラカード七、八本を作つた旨の供述記載
(29)一、検察官に対する被告人土方弘の第六回供述調書中翌七月十四日吉田総理が来るというので皆で小樽駅え押掛けたが同総理が来なかつたので解散後私達は合同労組事務所に集つたそこで夕方六時頃豊川会館に皆が集ることが決つた、この時その場にいた人は被告人大原英夫、同大橋達、同福沢嘉子、同柴田正光、同中島正利及び池田一夫等である、そしてこの日夕方豊川会館に来た人は被告人寺井勝夫、同大橋達、同福沢嘉子、同中島正利、同高橋孝子及び池田一夫、坂本潜と私であつた、このときの会合もいつものように被告人寺井勝夫が主に話したがその話は今日の吉田総理に対する動員の足並が揃わなかつたことから始まり動員した以上事情が変つたらそれに適応した方針を樹てなければならないのにそれが出来ないのは政治性の不足にあるということで政治性の昂揚が中心となつて論議された次に被告人寺井勝夫は翌十五日の行動について話をしたが十五日の夜共産党創立三十周年記念演説会を開催する旨、続いて演説会の意義について説明し創立三十周年記念に際して破防法、再軍備、防空演習、赤旗弾圧等に反対する旨の演説を行うということであり、かかる意義ある日であるから妙見川畔と奥沢町方面で演説会をやる旨の看板かビラを出し、夫々その方え少数の人を配置し小樽の共産党の主力は手宮館附近に集結するとのこと、妙見川畔や奥沢町方面の演説会は作戦であつてこれは警察が来たら直ぐ解散することなどを話し、なお手宮館附近の演説会は無届集会であるから敵警察が出て来る、そこで之に対して実力闘争として火焔瓶を投げつけるという趣旨の話があつた、以上の被告人寺井勝夫の話したことについては誰も反対する者がいなかつた、そして被告人寺井勝夫は何か紙に書いたものを見ながら何人かの名前を読み上げ以上の人は投下班だと言い私と池田一夫を指差して「君と君は投下班だ、いいな」と言つたので私と池田一夫はそれを了承したのですが同人が読み上げた投下班の人は私達以外の人も含まれていた、私はその時被告人寺井勝夫が何か書いたものを読んでいた、小樽の全部がやるのであるから、これは小樽地区委員会の決定した方針だと思つた、豊川会館で別れる時投下班は具体的な相談をするため翌十五日漆原正直方を連絡場所と定めたので私がその日正午頃漆原方え行つたところ間もなく池田一夫が来、次いで火焔瓶を作つた氏名不詳の男と被告人大原英夫、同柴田正光が来たので共に火焔瓶を投げる具体的な相談をしたがその結果警察がキヤリヤーで拓銀手宮支店の方から来たならば群衆は道路の両側によけキヤリヤーが道路の中央を走つて来るから車が停らぬうちにそのキヤリヤーに火焔瓶を投げつけることになつた私はその際吾々の火焔瓶投擲は武力闘争のきつかけを作るものであつて投擲後は党の主力が本格的な闘争に移るのだから投下班と主力との連絡を密にする必要があることを被告人大原英夫に力説したが同人は私の言うことがまわりくどいと云つて同意しなかつた旨の供述記載
(30)一、検察官に対する被告人土方弘の第七回供述調書中昭和二十七年七月十四日午後六時頃私が豊川会館え行つたところ、そこに被告人大橋達が横になつており、間もなく被告人福沢嘉子、同中島正利、同高橋孝子、同寺井勝夫、同柴田正光及び池田一夫、坂本潜が来た、そして私の右隣りに被告人寺井勝夫左隣りに池田一夫がおり、私の向いに坂本潜、同人の右隣りに被告人大橋達がいた、被告人中島正利、同福田嘉子、同高橋孝子、同柴田正光は何処に座つていたか記憶がない、この会合は被告人寺井勝夫が座長で同人は小樽地区委員会の指令を持つて来て吾々に伝えるのですが、この時も何か紙に書いたものを読んで話をしていた、その話の内容は前に述べた通り防空演習、再軍備、破防法赤旗弾圧等に対する反対演説をするということでありその他翌十五日は小樽の祭典で警察はその警備に出ており又三十周年記念行事が全国的に行われていて国警などの応援を要求できない状態にあるから妙見川畔、奥沢方面で演説会をやる旨の「ビラ」を出し主力は手宮に集つて演説会を強行する、そしてこの演説会は無届集会であり警察官が来るからこれに対して、火焔瓶を投げつけて闘うということであつて以上のことを委員会の指令として私達に伝え、「この通り決めたがこれでいいな」というのでその場に集つていた右被告人等全員が納得賛成した、更に被告人寺井勝夫は同じく書いたものを見ながら何人かの名前を読み上げ、私と池田一夫、同柴田正光等は投下班だと言い、投下班以外のものは翌十五日夕方四時までに手宮公園に集るようにと指令して手宮公園に集る人の名前を読み上げたが当日出席した者のうち私達投下班に指名された者を除いた以外の人は全部その中に含まれていたし当日出席しなかた者の名前もあつた投下班は翌十五日正午漆原正直方に集り火焔瓶投擲の具体的方法を決めることにして別れたそして翌十五日正午頃右漆原方に集つた人は私と被告人大原英夫、同柴田正光及び池田一夫と火焔瓶を作つた氏名不詳の男であつて火焔瓶投擲については私が最初に投げるまでは他の者は投げないということに決つた、その後私と池田一夫は合同労働組合事務所え行きプラカード七、八本を作りその字は池田一夫が書いたのです、ざるに紙を貼つたプラカードは十四日に池田一夫が小樽駅え持つて行つたものでこれがその侭右事務所に置いてあつたこれは先の方に金具のついた長さ八尺位の竹の棒がつけてあつた、同日午後五時過頃氏名不詳の男が予定通り火焔瓶を入れたキヤラメル箱を包んだ風呂敷包を持つて来た旨の供述記載
(31)一、検察官に対する被告人土方弘の第八回供述調書中被告人長尾陸奥雄は昭和二十七年七月十四日夜豊川会館の会合に来ており被告人寺井勝夫が投下班の名前を呼び上げたときその中に入つており被告人長尾陸奥雄は投下班であつた、なお同人は翌十五日正午頃私が漆原正直方え行つたときも来ていた、なお氏名不詳の男が火焔瓶を入れた風呂敷包を合同労働組合事務所え持つて来たとき同人は塩素酸加里の浸透紙も持つて来たので右組合事務所の椽の下にあつた火焔瓶二本と私が持つて行つた火焔瓶二本にその浸透紙を貼り被告人柴田正光が持つて来たもう一本の火焔瓶を合せて火焔瓶包を一個作つた、右火焔瓶包のうち一包を被告人柴田正光が持つて行つた旨の供述記載
(32)一、検察官に対する被告人土方弘の第九回供述調書中昭和二十七年七月十四日豊川会館に集つたとき被告人寺井勝夫は被告人武藤和三郎が翌十五日の演説会に参加すると云つていたが十五日主力が手宮公園に集ることになつたのは私がその場所がよいと言つたからであつて私の指定した場所は七月十三日私及び被告人大橋達、同長尾陸奥雄が火焔瓶を実験したところである旨の供述記載
(33)一、第三十五回公判調書中証人木村ミヨの私は昭和十年十二月頃から小樽市豊川町豊川会館に住んでいるが私達家族は同会館の階下を使つており、会合などに使う部屋は二階の十畳と十二畳半の二部屋である、昭和二十七年七月十四日の晩右会館の二階を貸したことは間違いない、その際私は二階の階段の上り口のところで二階え昇りかけていた女の人と髪の下つた一人の男を見たが何人位の人が来たのか判らない、今まで二階で会合をしているとき特に小さい声でない限り話す内容までは判らないが話声は聞えるのですがその部屋を借りた人達の話声は聞えなかつた。そして二階え昇る階段のところに下駄を置くところがあるが私が気がついたときはそこに履物がなかつたので二階え昇つて見たら二階に誰もいなかつたので開いていた窓を閉めて後始末をした、その時刻は午後九時頃と思う、母は黙つて帰るとは余りひどいと云つて怒つていた旨の供述記載
(34)一、第四十一回公判調書中証人遠藤小平治の昭和二十七年七月四日頃若い娘さんが私のところえ来て、来る七月十二日の晩歌の会をやるのだが豊川会館を貸してくれとの申込があつたので、私はその料金二百円を受取り貸すことにした旨の供述記載
によりこれを認め、
(五) 豊川会館における右謀議にもとずく第一回無許可演説会開催に関する事実は、
(35)一、検察官に対する被告人土方弘の第二回供述調書中昭和二十七年七月十五日午後五時か六時頃私と池田一夫は合同労働組合事務所で氏名不詳の男からキヤラメルのボール箱にアルコール瓶位の大きさの火焔瓶十二、三本位を入れた風呂敷包一個を受取りそれを同事務所に置いて私は自宅え帰り夕食を済ませ帽子に三馬の日本手拭を入れて冠り手宮館附近え来てぶらぶらしていたところ同志が集つて来たので越前電気商会前で人集めのため皆でスクラムを組んでインターを唄いその後どちらが先であつたか忘れたが被告人大橋達同大原英夫が演説を始めた、その際私は先程合同労働組合事務所に置いておいた火焔瓶包を誰からであつたか忘れたが渡して貰つた私はその包を受取つて演説をしている後にあつた箱の上にあげて池田一夫とともにその傍に立つていた、その後演説をやめて皆合同労働組合事務所え引揚げた私はその火焔瓶包を同事務所に置いて警察に襲われては困ると思つたので私一人でその火焔瓶包を持つて豊川郵便局横の日雇、本庄方え行き同人に対し「一寸預つてくれ」と言つてその包を玄関に預けておいてから右事務所え行つた旨の供述記載
(36)一、検察官に対する被告人土方弘の第四回供述調書中昭和二十七年七月十五日の演説会場で使つたプラカードと、八本はいずれも私と池田一夫がその日の午後合同労働組合事務所で作つたものであつてそれらのプラカードは私が演説会場え行つたところ皆が持つて来たものと思われその場に置いてあつた旨の供述記載
(37)一、検察官に対する被告人土方弘の第六回供述調書中昭和二十七年七月十五日夕方越前電気商会の角でやつた演説会には私と被告人大原英夫、同大橋達、同福沢嘉子、同高橋孝子、同柴田正光及び池田一夫、火焔瓶を作つた氏名不詳の男がいたことを記憶するそしてこの演説会をやめるようになつた事情は被告人大橋達が被告人大原英夫かが演説をしているとき坂本潜が私に対し演説を止めさせろと言つたので私は演説者の後に行きその服を引張り「終りだ終りだ」と言つて演説を止めさせた、その演説を止めさせたのは坂本潜からの指令である、演説を止めてからか皆プラカードをかついで小樽市石山町三十九番地坂本方え引揚げた、右坂本方は合同労働組合の届出事務所になつているが、私が今まで合同労働組合事務所と言つていたのは手宮館横を上つて行つたところにある合同労働組合事務所の看板がある被告人寺井勝夫のところを言うのである、そして私は右火焔瓶包を本庄方に預けて右坂本方え行つたのである旨の供述記載
(38)一、検察官に対する被告人土方弘の第七回供述調書中昭和二十七年七月十五日の夕方、私は被告人柴田正光が投下班であつたので同人のところえ呼びに行つたら同人は夕食を食べており、私が「早く来い」と言つたら同人は「飯を食つてから」と言つていた旨の供述記載
(39)一、検察官に対する被告人土方弘の第八回供述調書中昭和二十七年七月十五日午後七時頃私が演説会場に予定されていた越前電気の方え行つたら間もなく坂本平治が音頭をとつてインターを唄い第一回目の演説会が始つた、その演説会が始つた頃その会場に被告人長尾陸奥雄もいた、なおその演説会場には火焔瓶包は二個あり、一包は地面に置いてあり他の一包は箱の上にあげてあつた、これらの包はいずれも演説者の両側に一包宛置いた旨の供述記載
(40)一、検察官に対する被告人土方弘の第十回供述調書中、第一回目の演説会のときは越前電気商会前の塵箱の上と箱などを積んであるところの前の地上との二個所にそれぞれ火焔瓶包を置いた旨の供述記載
(41)一、検察官に対する被告人大橋達の第三回供述調書中私は昭和二十七年七月十五日被告人長尾陸奥雄方で当日の演説会の原稿を作つておつたがその日午後六時頃私一人で手宮館の方え行つたところ当日はお祭りであり通行人が多く党員はあちこつちにいる程度で一ケ所には集つていなかつたその後午後七時頃になつてから私や被告人福沢嘉子、同中島正利及び池田一夫、向坂公夫、坂本潜、坂本平治等が私の選定した越前電気商会の横に集り、私は手宮館横の露店から演説用として林檎箱を借りて来たそれから先づ聴衆を集めるため私達全員がスクラムを組みインターを合唱し、その後直ぐ私が林檎箱の上に上つて聴衆に向つて党の歴史や破防法軍事基地などのことについて演説した私が約二十分位演説した頃坂本平治が演説を止めるように云つたので演説を止めたところ私の演説中に被告人大原英夫がその場え来たと見え私の止めたあと同人が演説をしたが同人も間もなく演説を止めた、被告人大原英夫の演説中私は聴衆の中に入つていた、被告人大原英夫が演説を止める頃その場に三人位の制服警官が見え、そのうち一人の警官が演説を止めた被告人大原英夫のところえ行き、四、五人の党員と話をしていたが間もなくこの演説会は解散になり小樽市石山町三十九番地坂本平治方に集ることになつたので私は林檎箱を返えして坂本方え行つたなお右演説中は他の党員は演説者の附近におりその近くにはプラカードが何本か置いてあつた旨の供述記載
(42)一、第六回公判調書中証人鳴海良吉の私は昭和二十七年七月十五日小樽市内の各所に日本共産党三十周年記念の演説会のビラが貼られていたのを見た旨の供述記載
(43)一、第七回公判調書中証人田畑勝則の私は昭和二十七年七月十五日小樽市内に日本共産党三十周年記念大演説会のビラが貼られていたのを見たので本署で坂本警備課長にその旨報告した旨の供述記載
(44)一、第十七回公判調書中証人小野昌雄の私は昭和二十七年七月十五日小樽市内に日本共産党創立三十周年記念の大会があるとのビラが貼つてあつたのを見た旨の供述記載
(45)一、第三……八回公判調書中証人〓西進悦の私は昭和二十七年七月十五日午前十時頃当日午後六時より小樽市内妙見川畔で日本共産党三十周年記念大演説会を行う旨のビラが妙見川のガード下とその附近のニユーギンザ前の橋に貼られてあつたの見た旨の供述記載
(46)一、押収に係るノート用紙一枚(昭和二十七年領第七十八号の五十四)の存在及び用紙に「十五日は日共創立三十周年記念日でした、ビラには妙見川、奥沢口と書いて貼つたのです(陽動作戦)」との記載
(47)一、押収に係るビラの写真(昭和二十七年領第七十八号の四十一)の存在
(48)一、第十八回公判調書中証人吉田トネ子の私は昭和二十七年七月十五日夕方未だ通る人がよく見える頃私の家の前の坂になつている道路を二人の労働者風の男が共産党演説会場と書いた板戸一枚位の大きさの立看板を持ち、その他の二人は板に棒のついたものに何か字を書いたプラカードを夫々一本宛持つて手宮館の前の大通りえ出て行つたその後十分位経つた頃先程のプラカードを持つて又私の家の前の道路を引返えして来たのを見た旨の供述記載
(49)一、第二十二回公判調書中証人須藤マサの私は手宮大映劇場の隣り道路をはさんだ電気会社の角で野菜の露店を出していたが昭和二十七年七月十五日午後未だ明るいうちに棒の先にざるのような円いものをつけたものを持つた一人の男とその他二人の男が坂の上の方から来て私の露店の前を通つて下の方え行つたのを見た旨の供述記載
(50)一、第三十一回公判調書中証人〓西力蔵の私は昭和二十七年七月十五日午後六時頃手宮大映劇場の横の石山仲通りを上つていつたとき吉野蒲鉾屋のあたりで直経二尺位のざるとプラカードを一、二本持ち、風呂敷包や棒のようなものを脇にかかえて下つて来た三、四人の人に出合つた、その人達の中には被告人柴田正光がいたと記憶する旨の供述記載
(51)一、検察官に対する〓西力蔵の第一回供述調書中、私は昭和二十七年七月十五日午後六時過頃手宮館横の石山仲通りの吉野蒲鉾屋の横で顔見知りの人とその他三名の人がプラカード二本とざるに紙を貼つて何か書いたものを持つて石山町の奥から十間通りえ出て来るのに出会つたそのとき風呂敷包を一個持つていたのを見た旨の供述記載
(52)一、第九回及び第三十八回各公判調書中証人沢和雄の私は昭和二十七年七月十五日午後七時頃警備課長から小樽市手宮町方面で日本共産党三十週年記念の無届集会があるかも知れぬのでその取締りに行くよう命ぜられた、その後私は同市手宮町越前電気商会の前で六、七人の人が高さ七尺位横四尺位の板に西洋紙を貼り日本共産党三十周年記念と書いた広告板のようなものを立て、その外プラカード五、六本が演台の後方に寄せかけてあり演説会の用意をしているのを見た、そしてその人達の中には私の知つている被告人高橋孝子、被告人福沢嘉子等がいたので錦町交番から本署にその旨連絡をしたその時刻は午後七時二十分位であつたと思う、錦町交番ら再び右越前電気商会前え引返したところ先程演説の準備をしていた場所に五、六十人の聴衆の中で白つぽいワイシヤツを着て髪をばさばさにした一人の男が日本共産党の党歴のようなことについて演説をしていた、なお被告人福沢嘉子がその場で通行人にビラを配つているのを見たので又錦町交番え戻り同交番から本署の坂本課長に電話でその演説の状況を報告した、その後再び越前電気商会前に引返えしたところ前と同じ人が未だ演説をしており二、三分経つてからロイド眼鏡をかけ白ワイシヤツに紺の背広を来て赤の斜に縞の入つたネクタイをつけた人と交代して演説を始め「七月十七、八日には官憲の弾圧がある、その時には皆さんの協力で我が党を守つてほしい」というような趣旨の演説をしてから五、六分経つた頃制服を着た山岸巡査部長と二名の巡査がその場に来て演説をしている人の立つていた台の近くえ行つたと思うとその演説者の周囲にいた五、六人の人が寄つて来て山岸巡査部長と何か話合つてその演説会は直ぐ解散した、解散してから演説をしていた人達七、八人のものがその場にあつたプカードや直経二尺五寸位の大きさでその表に紙を貼つて赤字と黒字で何か書いてあつたざるをもつて手官大映劇場の横から石山仲通りを坂の上の方え上つて行つたのを見た旨の供述記載
(53)一、第三回公判調書中証人山岸彰一の私は昭和二十七年七月十五日午後五時頃今堀警邏交通課長より当日許可集会があつた場合は解散させようにとの命令をうけ私が指揮者となり十一名の警官と共にキヤリヤーに乗り小樽市内の警邏に当つた、その後同日午後七時頃同市稲穂町稲北交番から小樽警察に電話連絡をしたところ矢野警備課長から同市錦町越前電気商会前の路上で無許可集会をやつているとのことで私達はキヤリヤーで同市錦町錦町交番に行き同交番から私が紺野、佃両巡査と共に右越前電気商会前に行つてみたらそこに相当数の群衆が集つており一人の男が林檎箱の上にあがつて演説をしていた、そこで私が群衆の中え這入つて行つたらその男は林檎箱から降りてしまい、その集会は自然に解散したので錦町交番に引揚げた旨の供述記載
(54)一、第三回公判調書中証人今堀勝美の私は昭和二十七年七月十五日朝谷口次席警視から今日小樽市内で無許可集会があるかもしれぬから取締るように指示をうけた旨の供述記載
(55)一、第四回公判調書中証人紺野芳美の私は昭和二十七年七月十五日夕刻より山岸巡査部長の指揮下に入り小樽市内の無許可集会の取締に当つた、同日午後七時頃同市内錦町交番に行つたとき手宮大映劇場前で無許可集会をしているとのことで私と山岸巡査部長と佃巡査の三人で様子を見に行つたところ越前電気商会の前で演説をしておりその場に六、七十人の群衆がいて若い女の人が一人附近の人にビラを配つていた、そしてその附近にプラカードや紙を貼つたざるがあつた山岸巡査部長がその人込みの中え這入つて行つたらすぐその演説会は解散したので私達三人は錦町交番え引揚げた旨の供述記載
(56)一、第六回公判調書中証人鳴海良吉の昭和二十七年七月十五日午後七時頃小樽市内越前電気商会の前に約七十人位の人が集つており日頃面識のある被告人大原英夫がその場で演説をしていた、その傍に日本共産党三十周年記念と書いたものがたてかけてあり被告人柴田正光が被告人大原英夫の前をあつちへ行つたりこつちへ行つたりしていた、そこで私はその附近の雑貨店から本署の坂本警備課長に電話をかけ被告人大原英夫が演説をしているがどうしたらよいかと尋ねたところ坂本課長はその演説については既に交番から電話で報告があつたのでその演説会を解散させるべく山岸巡査部長にキヤリヤーを出させたのでもうそちらえ着く頃だろうとのことであつた、そして私が再びその演説しているところへ戻つたとき被告人大原英夫は既に演説をやめており箱の上に立つた侭山岸巡査部長と何か話をしていたが間もなく被告人大原英夫は箱から降りた、私は山岸巡査部長と手宮大映劇場前の方え歩いて行き同人と長井花店の前で別れてから再び越前電気商会の方え引返えして来て阿部菓子店前に来たとき先程越前電気商会前で演説をしていた人達が十五、六名位かたまつて何か字を書いたプラカード十本位持つて十間通りの手宮大映劇場と北海電力株式会社手宮営業所との間の道路を山の方え上つて行くのを見たその人達の中には被告人土方弘、同柴田正光及び池田一夫がいた旨の供述記載
(57)一、第三十回公判調書中証人工藤忠雄の私は昭和二十七年七月十五日午後七時頃手宮館附近え行つた際越前電気商会の側で一人の男が箱の上に上つて演説をしておりその附近にプラカードが二本位あつたし演説していた人の後の方に黒い密柑箱の形をした包が置いてあつたそしてその場で二人の女の人がビラを配つておりそのうち一人は被告人高橋孝子に間違いない旨の供述記載
(58)一、検察官に対する佐藤宏の第二回供述調書中昭和二十七年七月十五日夕方薄暗くなりかけた頃北海道電力会社手宮営業所附近の越前電気商会の角で十人位の人がスクラムを組んで労働歌を唄つていたその中には私達が大原さん寺井さんと呼んでいる人達もいたそして間もなく私が藤川さんと共に電工の仕事に出掛けたところ越前電気商会の横で誰かが演説をしており大分人も集つていた、なおその場で二十一、二才位で小さい肥り気味の上下違う服装をした女の人が集つている人や通行人にビラを配つていた、私達が仕事を終つて帰るときも盛んに演説をしていたし営業所え帰つて間もなくその演説をしていた人達が十人位プラカード二、三本を持つて営業所と手宮館との間の小路を入つて行つた旨の供述記載
(59)一、検察官に対する佐藤宏の第二回供述調書中昭和二十七年七月十五日午後七時過頃越前電気商会前の演説会場に被告人中島正利及び池田一夫がいた旨の供述記載
(60)一、第三十三回公判調書中証人藤川新治の私は昭和二十七年七月十五日の晩越前電気商会のところで演説をやつているのを見た、聴衆は四、五十人位いたと思う、そして演説している人の近くで誰かがプラカード二、三本持つていたようであり二十才前後の女の人がビラを配つていて私もビラを貰つた、その演説会場には池田一夫がいた旨の供述記載
(61)一、第三十五回公判調書中証人坂田ミツの昭和二十七年七月十五日の夕方あまり暗くない頃越前電気商会の前で十人位肩を組んで歌を唄つていた、その人達の中に被告人柴田正光がおり又女の人が一人いた、歌を唄つてからやせた人が台の上に上つて何か話を始めるようであつた、なお女の人がその場で小さい紙切れを配つていたし板に紙を貼り棒をつけたプラカード二、三本位が越前電気商会の横に置いてあつた旨の供述記載
(62)一、第三十六回公判調書中証人神野サヨの昭和二十七年七月十五日午後七時頃越前電気商会の前で共産党の人が十人位半円形に並んで聞いたことのない歌を唄つていたその中には被告人柴田正光がおり、余り背の高くない女の人が一人いた、なおその場に共産党の三十年記念とか書いた看板がたてかけてありその大きさは映画のビラを貼つてある看板程度のものであつた旨の供述記載
(63)一、第二十四回公判調書中証人本間正治の昭和二十七年七月十五日午後七時三十分頃越前電気商会のところで演説をしていた、その際同商会の窓下、演説者に向つて右側約三尺位、私から六尺位のところに積み重ねてあつた空箱の上に風呂敷包が置いてあつた、私はその風呂敷包はその場え行つてから直ぐあるのに気がついたが風呂敷包から出ていた部分を見たらボール箱のような色をしていた、そして演説中はその風呂敷包のところで演説者の仲間と思われる人が二人いて私が見ていたらそのうち一人がその風呂敷包の前に立塞つてそれを隠すようにしていたがそのうちその人でない他の一人の人はその場からいなくなつた旨の供述記載
(64)一、検察官に対する本間正治の第二回供述調書中池田一夫は昭和二十七年七月十五日午後七時頃越前電気商会の横で共産党員が演説をしていた際同商会の窓下に積んであつた空箱の上にあつた風呂敷包の番をしていた人のうち先に何処かえ行つてしまつた男に相違ない旨の供述記載
(65)一、裁判官に対する証人本間正治の尋問調書中昭和二十七年七月十五日午後七時過頃越前電気商会のところで演説があつたとき同商会の出窓の下に空箱が積んでありその上に厚さ五寸位、縦横一尺位の箱を風呂敷に包んだものがあつて二人の男がその番をしていたがそのうち一人は演説者の脇に立つている共産党の仲間のところえ行き残つた一人はその場にいて私が風呂敷包を見ていたのに注意を引かれたのか後向きになつてその包を隠すような恰好で立ち上つた、この男は池田一夫に相違ない旨の供述記載
(66)一、第二十三回公判調書中証人本庄福次郎の私は小樽市豊川町五十一番地に住んでいるが昭和二十七年七月十五日午後八時頃被告人土方弘が私方に来て風呂敷包を預つてくれと言つて出した、その包は高さ六寸位、長さ六寸位の四角い恰好の風呂敷包であつて同人はそれを置いて直ぐ出て行つた旨の供述記載
(67)一、司法巡査薄田節男作成の被告人写真綴一通
(68)一、第四十二回公判調書中証人泉恭三の供述記載
(69)一、当裁判所の昭和二十八年九月三十日附検証調書の記載
(70)一、検察官作成の昭和二十七年八月十日附検証調書の記載
(71)一、押収に係る印刷物アジビラ二枚(昭和二十七年領第七十八号の三十四及び同号の三十五)の各存在
(72)一、小樽市公安委員会の演説会の届出有無についてと題する書面の記載
によりこれを認め
(六) 被告人武藤和三郎外十一名が意思連絡のうえ第二回及び第三回の無許可演説会を強行し取締の警察官に対し火焔瓶を投擲してその公務執行を妨害し傷害を与えたことに関する事実は、
一、前記の各証拠(但し以下掲記の証拠と重複するものを除く)
(73)一、検察官に対する被告人土方弘の第六回供述調書中、私は火焔瓶包を本庄方に預けて坂本方え引返えしたら盛んに皆が何か言つていた、要するに昨日の小樽駅前動員と同じ結果に終つてはならないと言うことで今引揚げて来たことを色々と批判していた、被告人大橋達は元気な口調で聴衆から止めるのか逃げるのかなどと弥次られたが全くその通りだと言つていた、そこえ被告人寺井勝夫が来て不思議そうな顔で「どうした」と聞いたので誰かが「どうしたもない、止めろというから止めたのだ」と言うと同被告人は「誰がそんなことを言つた、誰も言わない、やる意思があるのか」と言つたので皆が「やる意思がある」と答えたら「それならやれ」と言うわけで再び演説会をやることになつた、それで私は本庄方え火焔瓶包を取りに行き二本をポケツトに入れて演説現場え行つた旨の供述記載
(74)一、検察官に対する被告人土方弘の第八回供述調書中昭和二十七年七月十五日越前電気商会のところの第一回の演説会が終つてから私は火焔瓶を本庄方に預けて坂本の家え行つたら間もなく同家え他の人も来て結局被告人福沢嘉子、同高橋孝子、同中島正利、同大橋達、同長尾陸奥雄及び池田一夫、坂本平治その他氏名不詳の女が集つたそこえ被告人寺井勝夫がやつて来て皆に「やる気があるのか」と言つたところ皆が「やる」と言つたので又演説会をやることになつた、そのとき被告人寺井勝夫は私に対し「火焔瓶はどうしたか」と聞いたので私は同人に対し「近くにあるから何時でも間に合う」と言つた私が本庄方に預けた火焔瓶包以外のもう一つの火焔瓶包については被告人長尾陸奥雄であつたか氏名不詳の男であつたか判つきりしないが「近くになくて直ぐには間に合わない」と言つていたのを記憶する、なお被告人寺井勝夫が私に「火焔瓶はいくらあるか」と聞いたので「十二、三本位ある」と言うと同人は「それで間に合う」と言つていた、第一回の演説会が解散して私が坂本方に行つたとき、そこにいたのは、四、五人であつたので私は被告人柴田正光、同長尾陸奥雄その他の人を探がしに演説会場の方え出掛けたがその際合同労働組合事務所の前を通つたらその中に演説会で使つたプラカードが置いてあるのが見えた、私が被告人柴田正光の家え行つたところ同人の妻信子が家の前にいて被告人柴田正光はまだ帰らないと言つていた、そして前に述べたように坂本方で被告人寺井勝夫からもう一度演説会をやるように言われたので私は被告人長尾陸奥雄及び氏名不詳の男と三人で本庄方え預けた火焔瓶包を取りに行き本庄方からその包を持ち出しその家の前でそのうち二本を私が取り被告人長尾陸奥雄と氏名不詳の男に夫々一本宛火焔瓶を持たせた、火焔瓶包は氏名不詳の男が持ち、三人で演説会場の方え行つたが途中川のある八間通りで鈴木実に会つた、私が一寸の間同人と立話をしているうち被告人長尾陸奥雄等は先に歩いていた、当時氏名不詳の男は白ワイシヤツに黒つぽいズボンをはき薄鼠色の背広の上衣を着て靴をはいていた、午後十時頃前と同じ越前電気商会の前で再び演説会を始めることになつたが、先づ私達は半月形にスクラムを組みインターを唄い被告人大橋達が帽子か何かを振つて調子をとつた、演説が始つてからは、私は警察の自動車が来ないかと思つて拓銀手宮支店の方ばかり注意していたが演説をやつている被告人大橋が「追え」とか「逃がすな」とか「捕えろ」とか言つたので同人の後の方にいた人が林屋デパートの方え走つて行つた、私は何のことか判らなかつた、被告人大橋達は演説を続けており私はその傍にいたが林屋の方え走つて行つた人は戻つて来ないし聴衆も殆んどいなくなり被告人大橋達は箱を降りて箱に手をかけたので私も同人と前後して林屋の方え走つて行つた、安部菓子店のところに人が多勢集つていたのでその中え這入つて行つたら「スパイだ」と言う女の声が聞えた、そのうち群衆は林屋デパート角十間通り中央の方え動いて行き私もそれに押されて道路の中央に出たら直ぐ傍で再び被告人大橋達が演説を始めた、私は被告人大橋達のそばで越前電気商会の方を警察の車が来ないかと思つて見ていたが、このとき私の近くに被告人高橋孝子が火焔瓶を入れた風呂敷包を提げているのが見えた、そのうち警察のサイドカーとキヤリヤーが来たので私はそれに対して夫々火焔瓶一個を投げつけた、私は火焔瓶を投げてから後え退つて見ていたところ警察の人に捕えられた旨の供述記載
(75)一、検察官に対する被告人土方弘の第九回供述調書中、七月十五日の夜十時頃越前電気商会横で演説会をやつたとき被告人武藤和三郎がすぐ傍にいたと思う、それは夕方同じ場所でやつた演説会が中止になりその後坂本潜の家に集つたとき先程の演説会は演説会側と指導部との連絡の不備のためであつたから二度目の演説会のときは演説会場の直ぐそばに指導部がいて情勢に応じて直ちに指揮がとれるようになつていたからである、第二回目の演説会場で私が指導部が何処にいるのかと思つて坂本潜に「被告人武藤和三郎がいるのか」と聞いたところ坂本は直ぐそばに来ていると言う意味の返事をしていた、なお当日の演説会の責任者は坂本潜であつた、これは同人の地位や当時の態度などから私にはそう判断された当日の指導部というのは被告人武藤和三郎、同寺井勝夫、同大原英夫等のグループを言うのである旨の供述記載
(76)一、検察官に対する被告人土方弘の第十回供述調書中、昭和二十七年七月十五日の夜私は第一回目の演説会を解散して坂本方え引揚げてから本庄方え火焔瓶包を預けたがそのときは既に火焔瓶は十本位でキヤラメルの箱に入つて風呂敷に包んであつた、その風呂敷の色は白色でなかつたことは確実である、その後私と被告人長尾陸奥雄、氏名不詳の男等がその風呂敷包を取つて川の下に向つて左側を通つて下りて来たらその途中、橋の附近で鈴木実に会つたそのとき私は一寸立止つたがあとの二人はどんどん下え歩いて行つた、なお本庄方を出て直ぐ火焔瓶包を氏名不詳の男に渡した第二回目の演説会のときは火焔瓶包はこれ丈けであつた、それは本庄方え預けたほかの包は取りに行かなかつたからである、第二回目の演説会のとき数名のものが誰かの後を追つて走り聴衆もだんだん減り被告人大橋達が箱から降りて箱に手をかけたので私は会場を移すのだなと思つて私も大映劇場の方え走つて行つた、その後間もなく被告人大橋達は大映劇場前の十字路で演説を始めた、私は被告人大橋達の近くで長さ三尺位の丸い棒を手に持つてあたりに気を配つていた、そのときは私のズボンの左右のポケツトに火焔瓶が入つていた、そのうちサイレンを鳴らしてサイドカーを先頭にしてキヤリヤーが来たので群衆は道路の左右に寄つたため私は道路にとり残された恰好になりサイドカーが私のいる近くに来たとき私は先ずポケツトから火焔瓶一本を取り出してそれに投げつけ次にキヤリヤーが来たのでもう一本の火焔瓶をそのキヤリヤーに投げつけたところ発火しキヤリヤーの幌が燃えた、キヤリヤーがとまりかけたとき私は三、四人の人がそのキヤリヤーの後からと左右から火達磨になつて飛び降りるのを見た、私がキヤリヤーの燃えているのを十秒位見ていたら、いきなり誰かが私の後から腕を廻して「こいつだ投げたのは」と言つて組ついて来た、そして近くに黒服の眼鏡をかけた人がいて何か叫んでいた、それから私は誰からか手錠をかけられ風呂屋と床屋の間位に止つていたキヤリヤーに乗せられた、キヤリヤーには被告人大原英夫がおり、本署に来てから被告人寺井勝夫、同富井誠が捕つて来た旨の供述記載
(78)一、検察官に対する被告人土方弘の第二回供述調書中、再び演説会をやることになり私は本庄方に火焔瓶を取りに行つた、その後越前電気商会の前で被告人大橋達が演説を始めた同人が演説を始めてから二、三分経つたと思つたら皆がわつと言つ、て手宮舘の方え移動して行つた、それで私もついて行つたところ林屋百貨店の角で多勢の人が騒いでおり群衆の中から新聞記者が何かしたと言うような声が聞えた、その後被告人大橋達が林屋百貨店角の十字路で箱に上つて又演説を始めたので私は同人の左斜後方六尺位離れたところでキヤリヤーが来たら火焔瓶を投げつけようと思つていた、被告人大橋達が演説を始めてから五分位経つた頃越前電気商会の方から自動車のサイレンの音が聞えて来たので見たらサイドカーが先になつてその後からキヤリヤーが越前電気商会の角を曲つてこちらえ来るのが見え、どちらの車にも警察官が乗つていることが判つた、その際私はキヤリヤーの来る方向に向つて十字路の稍々錦町仲通りによつたところに立つていたがサイドカーが私の直前七米位のところに来たときズボンのポケツトから火焔瓶一本を取り出しそのサイドカー目蒐けて投げつけ、続いて持つていた他の火焔瓶一本をキヤリヤーに投げつけた、サイドカーはどうなつたか判らないがキヤリヤーはぱつと燃えあがつて、その後から制服の警察官が三人位火達磨になつて飛び降るのを見た、そしてその警察官は林屋百貨店の方え走つて行つた様でしたが私は林屋百貨店のウインドーの方え寄つて十秒位それを見ていたと思つたら後から「こいつだこいつだ」と言つてそこで四、五人の人に逮捕された、その際私は青の作業ズボンに地下足袋を履き白丸首シヤツの上に国防色の開襟シヤツを着て黒色ロイド縁の近眼鏡をかけてビニールの運転手の被るような帽子をかぶつていた、その帽子の中には三馬の日本手拭を入れてあつたが捕つたときは眼鏡や帽子、手拭等は捕まる際に落したものかなかつた、なお私は越前電気商会前から林屋百貨店のところえ来るとき棒切れを持つて来たようにも思うが火焔瓶を投げるときそれを持つていたかどうか記憶がない、私は当時火焔瓶を投げる重要な役割を担当していたので演説会には同志の誰が参加し、各自がどのようなことをしたのか判然しないがスクラムを組んだときや最初の演説を終つて皆が合同労組事務所(坂本方の届出事務所を指すもの)に集つたときには、被告人寺井勝夫、同大橋達、同大原英夫、同福沢嘉子、同高橋孝子、同柴田正光及び池田一夫の七人は記憶しているがそのほかの人については記憶がない旨の供述記載
一、検察官に対する被告人土方弘の第四回供述調書中越前電気商会前で二回目の演説のとき私は本庄方から持つて行つた火焔瓶包を演説者の後方に置いたがそのうち皆が林屋百貨店の方え移動したので私もついて行つた、その際その火焔瓶包は持つて行かなかつた、そのためその包が林屋百貨店附近に置いてあつたとしても誰がそこえ持つて行つたものか私には判らない旨の供述記載
(79)一、検察官に対する被告人土方弘の第七回供述調書中、七月十五日の夜越前電気商会横で二度目の演説会があつたとき私は拓銀手宮支店の方向を警察の車が来るか来るかと思つて注意していたので新聞記者がフラツシユをたいたことは気がつかなかつた、唯被告人大橋達が逃がすなと言つていたのを記憶する、そしてここに集つていた人が林屋デパートの方え行つてしまい被告人大橋達も演台の箱を持つて同デパートの方え走つて行つた、私も皆より遅れてその方え行つたら林屋デパートの横通りで人が集つて何か騒いでいた、その後間もなく被告人大橋達が十間通りの路上で前と同じ箱に上つて演説を始め、その演説中に警察のサイドカーとキヤリヤーがやつて来たので私がこれに対し夫々火焔瓶を一発宛投げつけた旨の供述記載
(80)一、検察官に対する被告人大橋達の第三回供述調書中昭和二十七年七月十五日午後七時頃の越前電気商会のところでの演説会が解散になつて小樽市石山町三十九番地の坂本平治の家に集まることになり私は林檎箱を返えして右坂本方え行つたところ既に坂本潜、坂本平治、被告人福沢嘉子、同中島正利、同土方弘、同高橋孝子及び池田一夫等が来ていた、皆が集つて話をしているとき被告人寺井勝夫が這入つて来て同人は坂本潜の方を向いて「どうして演説会を止めた」と言つたところ坂本は下を向いて黙つていたので私は演説の現場責任者は坂本潜であると思つた、暫らく皆が黙つていたが、誰かが被告人寺井勝夫に対し「止めろと言つたから止めたのだ」と言うと被告人寺井勝夫は「止めろと言つたことはない」と言い「もう一回やろう」と言つて皆の顔をぢつと見廻した、そこで私が先ず再び演説をやることに賛成し、被告人土方弘も賛成し、その他二、三人の同意見のものが出て結局又演説をやることになつた、そのとき皆の前で被告人寺井勝夫が俺も行くと言つたので最初の演説会の現場責任者である坂本潜のやり方がまずかつたので今度は被告人寺井勝夫が直接現場の責任者となつて指示するのだと私は考えた、当日は私は白ワイシヤツに白ズボンを履き、被告人大原英夫は演説中は背広を着て眼鏡をかけていた、坂本平治方を出て私は再び前と同じ店で林檎箱を借りて来て同じ越前電気商会の横で演説の用意をし、先ず皆でスクラムを組み私はスクラムから離れて音頭をとり全員でインターを唄つた、そして私は再び林檎箱の上にあがつて演説を始めた、この演説は無届演説会でありこれをやる以上警察官が取締に出動して来るからそのときはこれに対し火焔瓶を投げつけるということは十四日のこともあるので私には判つていた、このときの私の演説内容は主として破防法に関することや防空演習の問題にも多少触れ、演説中何時警察官が来るかということを私は気にしていた、その時刻は夜九時過頃で聴衆は百人位いた私が演説の最中聴衆の右後方からフラツシユが二回続けて光つたので私は止めろとか何をするのだとか怒鳴つたのですがフラツシユが光つたあたりから写真機を手に持つた男が手宮館の方え走つて行つた、私は自分の姿が撮影されたと思つたので後でこれが証拠になつても困ると考え、そのフイルムを取り返えす心算で「追え」と言つたところ私の後方から二、三人の党員が写真を撮つた人の後を追つて走つて行つた、そして聴衆の半分位がいなくなつたけれども尚も演説を続けていると池田一夫が演説している私のところえ来て私に対し「向うで演説をやつてくれ」と言うので私は演説会場を林屋デパートの方え移すべくその方え行つた、すると林屋デパート横十字路附近に群衆が集つておりその中から助けてやりなさいという四、五十才位の女の声がしたので私が群衆の中えわけて這入つたところ一人の男が被告人福沢嘉子の手を引いて引摺つていた、被告人福沢嘉子は前かがみになつて手を引かれており「この人スパイだ」と叫んでいた、そこで私はその男の右横あたりに行き「放せ」と言つたがその男が放さなかつたので右手拳でその男の顔面を前の方から一回殴つた、するとその男は被告人福沢嘉子の手を放し被告人福沢嘉子はその隙に群衆の中え逃げ込んだ、その後直ちに私はその場から五、六米位離れた手宮館横十字路の中央あたりで箱の上にあがつて再び演説をした、私は主に越前電気商会の方を向いて演説をしたがサイレンの音が聞え大島雑貨店附近にいた消防団員が手を拡げて交通整理をする恰好をしたのでこれは私達を取締るため警官が出動して来たのだなと直感し近くにいた党員に「来たぞ」と言つてから直ぐ箱から降りて林屋デパートと安部菓子店との間を走つて三日月カフヱーのところから左に折れ手宮駅の方え行きその晩は金の家に泊つた旨の供述記載
(81)一、当公廷における被告人大橋達の昭和二十七年七月十五日私が最後に演説をしたときキヤリヤーの姿は見えなかつたがサイレンが聞えて来たので私は直ぐ林檎箱から降りて三日月カフヱーの方え逃げた、そして三日月カフヱーの角を曲るとき後の方に一寸火が出ているのを見た、私はサイレンが聞えて来たので警察のキヤリヤーが出動して来たと思い警察官が現場に出動して来れば私達のやつている演説会が無届集会であるから演説者は当然検束されると考えたので逃げたのである、この演説会が無届集会であることはその前日の豊川会館での会合で判つていたしその会合で被告人寺井勝夫が人名を呼び上げてこれこれの者は明日どこどこえ集つてくれと言つたところから当時警察官が検束するなどの実力行使をした場合これと実力をもつて闘うという行動隊のような組が当然あつたと私は思う、そして実力をもつて闘うというのは勿論火焔瓶を使用すると私は思つていた、と言うのは十四日の豊川会館での会合で翌十五日に演説会を開くことを聞いたし当時の状況からしてその二日前に既に火焔瓶は作つてあつたので当然火焔瓶を使うと思つていた、なお火焔瓶を使用するということも党が戦術的にやるということになつたと思う旨の供述
(82)一、第二十三回公判調書中証人本庄福次郎の昭和二十七年七月十五日午後八時頃被告人土方弘が私方に風呂敷包を預けて行つたがその後同日午後十時過頃気がついたときはその風呂敷包はなくなつていた旨の供述記載
(83)一、第五十九回公判調書中証人鈴木実の私は昭和二十七年七月十五日午後九時過頃手宮の八間通りを川に沿つて上つて行つた、小樽市豊川町豊川町郵便局附近に設けられた演芸場の七、八間下の方で被告人土方弘が国防色の開襟シヤツのようなものを着て下の方から上の方え来たのに出会つたので互に一寸挨拶をして別れた、被告人土方弘は急ぐようにして上の方え走つて行つたがそのときは被告人土方弘の他に二人の男がおりその人達も被告人土方弘と一緒に走つて行つた、なおその二人の男のうち一人が手提篭のようなものを持つていたようである旨の供述記載
(84)一、検察官に対する平田美恵子の第一回供述調書中私の家は小樽市豊川町六十四番地にあり私の家の向いに労働組合の事務所があるが昭和二十七年七月十五日午後九時過頃と思うが私は母、妹の二人と一緒に石山町の石山仲通りの上の方え演芸会を見に行き約五分位で自宅の方え戻つて来たところ右労働組合事務所の前に男七、八人がいてそのうち二、三人の人が十間通りの方え下つて行つた、そしてその男の人に混つて女の人が二人下つて行つた、男の人は手に手にプラカードを持つており男の人達のうち一人が縦横三十糎位で厚さ二十糎位の四角ばつたものを風呂敷包にして持つていた、二人の女のうち一人は被告人高橋孝子であつて同人とは手宮小学校当時一緒であつた、被告人高橋孝子は男の人に混つて労働組合事務所のところに立つていて労働組合事務所の玄関の戸を締め直していた白つぽい服装の女の人と一緒に坂を下つて行つた、その後私達は八間通りに出て手宮館前の十間通りの坂の上の方え安置されていた御輿の附近にある活花を見に行つたがその途中越前電気商会の角で顔見知りのひげさんが群衆に向つて演説をしているのを見た旨の供述記載
(85)一、検察官に対する平田美恵子の第二回供述調書中私達がひげさんと呼んでいる人は池田一夫であり同人は私の家の前の労働組合事務所におり昭和二十七年七月十五日の晩越前電気商会の前で演説をしていた旨の供述記載
(86)一、検察官に対する平田靖子の第一回供述調書中、私は昭和二十七年七月十五日午後九時半頃母、姉、妹の四人で私の家の前を通つたとき労働組合の家の前の道路に七、八人の男がおり、直ぐ手宮館の方え歩き出した、そのうち二、三人の人はプラカードをかついでいた、又その男の人達の中にひげさんがいた、そしてその男の人達が歩き出してから女の人が三人労働組合の家から出て来てそのうち二人の女は男の人達の後を追い他の一人の女は又労働組合の家に這入つて風呂敷に包んだものを持つて来た、その包の大きさは縦五、六寸位長さ七、八寸位であつた、その風呂敷包を持つた女の人は私達の直ぐ後からついて来たが私達は久保田八百屋の向から下の川通りに下つてから十間通りに出て坂の上の方にある活花を見に行きその途中越前電気商会の前を通つたときそこでひげさんが演説をしていたのを見た旨の供述記載
(87)一、検察官に対する平田靖子の第二回供述調書中、私達がひげさんと呼んでいる人は池田一夫であつて同人は昭和二十七年七月十五日の晩越前電気商会の前で演説をしていた旨の供述記載
(88)一、検察官に対する平田ミツヱの第一回供述調書中昭和二十七年七月十五日午後九時三十分過頃私達が私の家の附近にある石垣の角を曲つて家の方え下つて来たとき私はその石垣の前に四、五人の男が立つているのを見、たそして私達が恰度家の前に来たとき私の家の向側の合同労働組合の看板がかかつた家の前に九人位の人がおり、そのうち三人位の人が組合の中え這入りプラカードを持つて来て手渡していた、その人達の中には女の人が二人おり、そのうち一人の女は高橋さんである、又ひげさんという人もいた、それらの人達は一緒に石山仲通りを下つて行つたがそのうち女の人が一人組合の方え引返えしたのでその人は私達の後になつて石山仲通りを下つて来たその人達は真直ぐ石山仲通りを下つて行つたが私達は途中から川通に出た、私達が川を下つて十間通りに出て越前電気屋の前に来たところそこに人だかりがしておりひげさんが演説をしていた旨の供述記載
(89)一、第七回公判調書中証人田畑勝則の昭和二十七年七月十五日午後十時頃秋が手宮大映劇場の前まで来たとき越前電気商会のところで四、五十人の人が集つているのが見えたのでそばえ行つて見たら誰かが台の上で演説をしていた、そこで錦町交番にいる小林巡査部長にその旨連絡してから同人と一緒に越前電気商会の前に行つたところ被告人大橋達が演説をしておりそのうしろに四、五人の男が一列になつて立つていた、その右から二人目にいたのが被告人柴田正光であつた旨の供述記載
(90)一、第九回及び第三十八回各公判調書中、証人沢和雄の昭和二十七年七月十五日夜私が十間通りに出たところ又越前電気商会の前で六十人位の人が集つており被告人大橋達が演説をしていたその際被告人福沢嘉子は前のときと同じように聴衆にビラを配つていた旨の供述記載
(91)一、第三十三回及び第四十九回各公判調書中証人阿部效也の私が昭和二十七年七月十五日夜拓殖銀行手宮支店の横道路から十間通りを通つて帰宅の途中手宮館附近で共産党の人が演説していたのを見た、そしてその演説会場に私の知つている共産党の人で米屋さんの娘である被告人高橋孝子と同富井誠、同寺井勝夫がいたのを見た、私が家え帰つてから二、三十人分位たつた頃知合の山元記者が私の家に逃げ込んで来た旨の供述記載
(92)一、第三十二回公判調書中証人亀谷定義の昭和二十七年七月十五日午後十時過頃越前電気商会の前あたりに人が集つており近寄つてみたら池田一夫が司会のような話をしていたが間もなくその話を止めて別の若い人が演説を始めたその演説者の後方に演説会に関する映画の看板位の大きさのものが立てかけてあつた、そして演説中ぱつと光りスパイという女の声が聞えそこに集つていた人が附近の手宮大映劇場の方え移動した旨の供述記載
(93)一、第十五回公判調書中証人山元芳一の昭和二十七年七月十五日午後九時過頃私が錦町交番から帰ろうとしたところ手宮大映劇場前で無届演説会をやつているということで写真機を持つて行つてみたら十間通りと拓殖銀行手宮支店え行く通りとの交叉点のところで被告人大橋達が演説をしていた、そして演説者を囲んで沢山の聴衆がいたので私は持つて行つた写真機でその模様を閃光電球を使つて撮影した、私が写真をとつて写真機の引蓋をはめると同時に演説者の背後にプラカードが立つていた方向から「こいつだ」と言つて聴衆をわけて私の方え来る人があつたので私は手宮大映劇場の方え走つて行き安部菓子店附近で数人の人から首筋を手で殴られたり写真機を持つていた手をプラカードで殴られたり、腰から背中にかけて蹴られたり殴られたりした、そのとき私を囲んでいた人の中から若い女の声で私の方を見て「スパイだ」と連呼していたので腹が立ち私はその女の腕をつかみ交番え行こうと言つて引張つたとき被告人大橋達から顎から胸倉にかけて手拳で突かれそこで私は阿部洋品店の方え逃げた旨の供述記載
(94)一、検察官に対する小野昌雄の第一回供述調書中昭和二十七年七月十五日午後十時頃私が錦町巡査派出所にいたら第二回目の演説が始つたという情報が入つたのでその演説現場の方え行つたら十間通りの越前電気商会横でやせた白ワイシヤツを着た若い男が台に上つて演説をしておりその周りに顔見返りの日共党員の被告人武藤和三郎及び池田一夫等三、四名が取巻いており、なおその向つて右側に女一人を混えた四、五人の党員らしい者がスクラムを組んでおりその前に群衆が三、四十人集つていた、私は演説の稍右側前方の群衆の外側に立ち私の右側に道新の村田カメラマン達、タイムスの山元カメラマンが演説者の右側でスクラムの外側に立つて様子を見ているうち山元君がフラツシユをたいたので続いて私もたいたところ、それと同時に演説者の前にいた池田一夫等やスクラムを組んだ連中が写真をとるなと言つて一斉に私と山元君を追かけて来たので私は八間通りの方え逃げ途中大映劇場の前辺りで振り返つて見たら山元君が石山仲通りの林屋百貨店の角辺りで党員に捕り殴られたのを見た旨の供述記載
(95)一、第二十九回公判調書中証人鈴木雲海の私は昭和二十七年七月十五日午後九時頃大映劇場前の十間通りの方え祭りを見に行つた際<大>大島の向側の電気屋の前で十三人位の男女が一列になつて手を肩に組んで体をいろいろにねじつて聞いたことのない歌を唄つていたのを見た、暫らくしてその歌が止んでから白ワイシヤツを着た人が箱の上に上つて三十年以来とか警察に圧迫された来た、吾々は監獄に行く覚悟だとか演説を始めた、聴衆は百人位であつて演説者の後の方にかがむような恰好をした一人の人がいてその人は足を開き膝の上に手をあげていろいろ後の方から前の方えと四方に目を配つており、演説者と何か関係があるようであつた、又その人の後の方に何人かの人が並んでいたが、それらの人達は皆演説者の仲間のように見えた、又その演説している附近には白い紙を貼つたものに棒をつけたものが五、六本とざるに白い紙を貼つたものがあり夫々字や絵が書いてあつた、そしてその場で二十才を一寸過ぎた位な女の人が附近の人に印刷物を配つており私もその印刷物を貰つた、暫らく演説をしていたがぴかつと二回位光つたと思つたら、そのうち附近の人がざわめき人の動く気配があり安部菓子店の方え人々が移動して行き間もなく演説をしていた人も箱をもつてその方え行つたので私もその方え行つた旨の供述記載
(96)一、第二十七回公判調書中証人郷路籍子の昭和二十七年七月十五日午後九時五十分頃私は越前電気商会の近くの中野という家の前で同商会の横にベニヤ板に紙を貼りそれに赤い字で何か書き棒をつけたものが七、八本置いてあり又直径二尺四、五寸位のざるも置いてあるのを見たそしてその附近には共産党のグループの人が十二、三人位かたまつていたがそのうちその人達は越前電気商会を背にして西野薬店の方を向き横に半月形になつて肩を組んで歌を唄い出した、その中には女の人が一人おり歌はよく判らなかつたがプラカードやざるなどから推して共産党の歌でないかと思つた、四、五分位歌を唄つてからその人達のうちの一人がどこからか林檎箱を持つて来て越前電気商会の横三尺位のところに置いてその上で「今日は共産党の三十周年記念だ」とか言つて演説を始めた、演説をしていた人以外の人達はその附近におりそのうち女の人と男の人と二人がビラを配つた、演説が十分位続いたと思う頃に西野薬局の方で二回光り誰かが写真をとつたすると演説していた人は「追え」と言い先程肩を組んでいたグループの二、三人の人が安部菓子店の方え逃げて行く写真をとつた人を追つて走つて行つたその後二、三分位演説を続けていたが会場を移すと言つてグループの人達が皆林屋百貨店の方え行つたので私も子供を連れてその方え行つた旨の供述記載
(97)一、裁判官に対する証人郷路静子の尋問調書中、昭和二十七年七月十五日午後九時五十分頃私が越前電気商会の前を通りかかつたところ同商会の横に人が集つており附近にざるやプラカードが立てかけてあるのを見たので私は同商会の棟続きの中野方の前の十間通りで立止つて見ていた、そこに集つていた人は十二人でそのうち女の人が一人いた、最初その人達は腕を組み歌を唄つた一人が調子をとつていた、その後林檎箱を持つて来て歌の調子をとつた人がその上に上つて演説を始めたその場で男と女の人がビラを配つておりその演説していた場所に被告人武藤和三郎、同寺井勝夫、同富井誠、同大原英夫、同中島正利、同土方弘、同柴田正光及び池田一夫等がいたのを記憶する、被告人武藤和三郎はスクラムを組み歌を唄つたとき一番端で越前電気商会側におり演説が始つてからは演説者の後にいたし被告人寺井勝夫、同大原英夫、同中島正利、同土方弘、同柴田正光及び池田一夫等はいずれもスクラムを組み歌を唄い演説が始つてからは同様演説者の後にいた被告人柴田正光は演説が始つてから十分位その場に立つていた演説をした人は一人であつて「共産党三十周年記念で内地はおろか東京でも火焔瓶が乱れ飛んで警察官が重傷を負つている」という内容の演説をしていたがその後二回フラツシュがたかれたので私は写真をとつたなと思つた、そのときビラを配つていた女の人は「畜生」と言い演説をしていた人は「やつたのを追え」と言つたところその後にいた人達のうち二、三人が写真をとつた人を追つて安部菓子店の方え行つた、その二、三人のうちには被告人武藤和三郎がいたと思う、演説はその後も三、四分位続けていたが安部菓子店の方から合図があつたものと見え「現場え演説会場を移すから」と言つて林屋デパートの方え行つた旨の供述記載
一、検察官に対する郷路静子の第一回供述調書中昭和二十七年七月十五日午後九時四十分頃私が家え帰ろうとして越前電気商会のところまで来たとき同商会のところに七、八本のプラカードが立てかけてありその真中あたりに大きなざるに紙を貼つて赤い字で何か書いてあり、その両側には薄汚れたベニヤ板に三尺か四尺位の棒をつけたプラカードがあつた、その場に四、五人の男女がいた、私は何をするのかと思つて中野方の前で見ていたら女一人と男十人が越前電気商会と中野さんの間から道路の中央え半月形に互に腕を組んで身体を振りながら拍子をとつて共産党の人が良く唄う歌を唄い始めた、そしてやせた男がその歌の拍子をとつていた、そのうち次第に見物人が集まり百七、八十人が集つたと思う頃歌を止めてスクラムを解き、拍子をとつていた男は何処からか木箱を持つて来てその上で演説を始めた、その演説の内容は「三時間前に演説をやつたがとめられた」「共産党は三十年になる今頃は内地の東京方面で火焔瓶が乱れ飛んでいる筈だ」ということであつた、被告人大橋達はスクラムを組んだとき中央で歌の拍子をとつてから演説を始めた人であつて、被告人武藤和三郎、同高橋孝子、同寺井勝夫、同土方弘、同富井誠、同柴田正光及び池田一夫はいずれもそのときスクラムを組んだ人達である、スクラムを組んだ人達のうち五、六人の人が演説をしているとき演説者の左後方にいた、スクラムを組んでたときは拍子をとつた人を入れて男十一人女一人であつた、演説をしているとき男と女の人がビラを配つていた五、六分位演説をしたと思う頃小田雑貨店と西野薬店との間の方向から写真をとつたらしくぴかつと光つた、すると又西野薬店の方から写真をとつた人がおり同じくぴかつと光つたすると群衆の中から何人かが安部菓子店の方え走り出し演説をしていた男は手を上げて「やつたな追え」と叫び又「畜生」と言つて追いかけた女もいた、このとき演説をしていた男の左後から一人の男が走つて行つたが演説は続いており被告人武藤和三郎が同じく演説者の後の方から「俺も行つてみる」と言つてもう一人の男と走つて行つた、その演説は五分位続いていたと思うが演説していた男は「会場を移すから」と言つた旨の供述記載
一、検察官に対する小田良正の第一回供述調書中昭和二十七年七月十五日午後十時頃私が手宮館で映画を見て出たところ越前電気商会の前に百人位の人だかりがあり行つて見たら、そこで以前小樽市内能島通りの職業安定所で演説をしていたことのある被告人大橋達が林檎箱を台にして演説をしていた、そしてその後の方には被告人土方が四角い棒の先に一尺五寸四方位な板に紙を貼つた看板のようなものを持つて立つておりその以外に七、八人の人が演説者の後にいた、この時私の知つている被告人高橋孝子が通行人に「聞いて行つて下さい」と言つていた、十分位演説をした頃、私の後の方がぱつと明るくなり十秒か二十秒位して又その辺がぱつと明るくなり私は写真をとつたなと思つた、すると被告人大橋が後を見て「捕まえろ」と言いそこにいた人達が林屋デパートの方え写真をとつた人を追いかけて行つた旨の供述記載
一、第四十回公判調書中証人見神義之の昭和二十七年七月十五日夜誰かが写真をとつた人を追いかけて行き林屋デパートの角の菓子屋の前で捕まえて三人の男の人が写真をとつた人を殴つたりして喧嘩をしていたその後又手宮大映劇場と電気会社、林屋デパート、菓子屋の十字街の真中あたりで箱を台にして演説が始まつた、最初演説した人は写真をとつた人を手で殴つていたひげの生いている池田一夫で同人が五分位演説してから次に白ワイシヤツを着た若い人が演説をした、そこで私は大島雑貨店の方え戻つたのですがそのうちサイレンの音が聞えて来て警察の自動車が手宮バス通りの方から大島雑貨店の方え走つて来て、そこでオートバイがとまり乗つていた警察の人が私達警防団の人に対し「どつちの方でやつているのか」と尋ねたので私達は演説のことを聞いたのだと思つて林屋デパートの方を指差したところ、その自動車はその方えサイレンを鳴らしながら走つて行き恰度同デパートのところえ行つた瞬間その自動車の幌が燃え出したので駈けて行つて見たらその自動車に乗つていた警察の人の服や帽子が燃えて自動車から転り落ちた旨の供述記載
一、第三十二回公判調書中証人亀谷定義の昭和二十七年七月十五日午後十時過頃手宮大映劇場前の十間通りと石山仲通りとの十字街の中心より林屋デパート寄りのところで又ヒゲのある人が司会のような話をしてから二回目に越前電気商会のところで演説をした人が箱の上に上つて演説を始めたが暫らくしてサイレンを鳴らしながら警察の自動車が走つて来たので演説している附近にいた人は道路の端に寄つたし私も人に押されて林屋デパートの瀬戸物を売つている附近に寄つたところ右十文街あたりでその自動車の右側面の中程から火が出たとたん同じ所が続けさまに燃えたので警察の人は火達磨になつて飛び降りた旨の供述記載
一、第三十一回公判調書中証人佐藤宏の昭和二十七年七月十五日夜安部菓子店のあたりでカメラらしいものを奪合いしていた、後安部菓子店より少し道路の方で又演説が始つた、十分位演説をした頃警察の自動車が来て林屋百貨店の玩具売場の前あたりでその自動車に火がついた、なおその演説をしていたところに池田一夫がいたように思うし又私と北手宮小学校の同期生である被告人中島正利がいた旨の供述記載
一、検察官に対する佐藤作治の第一回及び第二回各供述調書中、私は昭和二十七年七月十五日夜十時頃喧嘩だと言うので外に出てみたら私の家の隣りの安部菓子店前に人だかりがあり背の高い黒つぽいジヤンバーのような服を着た男が誰かと組合つており間もなくその男が乙女屋糸店の方え逃げ出した、その後林屋百貨店前の十字街に人だかりがあり同百貨店角のあたりで被告人大橋達が演説を始めた、そして被告人大橋達の近くに白つぽい作業服を着て手に四、五尺位の竹のような棒を持つた身長五尺二、三寸やせ型の人がおり、この人の斜横、林屋百貨店寄りの方に被告人土方弘が手に三尺五、六寸位な襖のこわれた枠を持つて立つていた、被告人土方弘は竹のような棒を持つた男に対し「俺が此処にいるからお前は向え行け」と言つていた、演説が始つてから間もなく石山仲通りの方からサイレンが聞え越前電気商会の角を曲つて自動車がやつて来た、その自動車の正面が見えた頃被告人大橋達は「敵だ敵だ」と大声で叫び自動車が十間通りを林屋百貨店の前あたりに来たとき箱の上から飛び降りて石山仲通りえ逃げた、なお被告人高橋孝子は右演説会場に聴衆に混つて配電会社側から林屋百貨店側の方を向いて立つていた旨の供述記載
一、第二十六回公判調書中証人田中栄三の私は昭和二十七年七月十五日午後九時三十分頃小墫市内中央座からの帰途林屋百貨店の角のところの十字街で人が沢山集つており演説をしていたのを見た、演説をしていた人は一段高くなつて見えその人のまわりにはそのグループの人と認められる四、五人の男がおりプラカードも二本位あつた、演説しているうちに拓銀手宮支店の方から警察の自動車のサイレンの音が聞えて来た、そのとき演説している人は「来た」と言つたし、又そのまわりにいた人達のうち二人位が「来た来た」と言つたのを聞いた、そのうち警察の自動車が電気屋のところを曲つて来た、見ると自動車はサイドカーを先頭にして警察の乗つたキヤリヤーであつた、そして附近の人達は道路の両側に寄つた私は林屋百貨店の附近で警察の自動車を見ていたが後から来たキヤリヤーが同百貨店横十字路のところに差蒐つたところキヤリヤーの幌から火が出て乗つていた警官がその後方から火達磨になつて二人位飛び降りるのを見た、その後捕物が始まり私の前で一人の男が捕つた、又安部菓子店のところで誰かが捕つたのを見ました、その際演説をしていたのは被告人大橋達でそのまわりに被告人富井誠及び池田一夫がいた旨の供述記載
一、検察官に対する田中栄三の第一回及び第二回各供述調書中、私が昭和二十七年七月十五日午後十時頃十間通りの林屋百貨店の角に来たとき私は十間通りと石山仲通りとの交叉点より稍々林屋寄りのところで共産党員らしいやせた頬のこけた男が一段高いところで演説をしており、そのまわりに七、八人位の党員らしい男がプラカードを持つたりして立つていたのを見た、そのうち石山町の方から自動車のサイレンの音が聞えて来た、すると演説をしていた男が「来た」とか言い同時にそのまわりにいた党員らしい七、八人の人も「来た」とか「準備しろ」とか「やつつけろ」とか口々に言つていた、そして群衆が道路の両側に寄り私も押されて林屋百貨店の角から二米位石山仲通りに入つてしまつたがその時サイレンを鳴しながら自動車が来て手宮館の角あたりでぱつと燃え上り、方々で火焔瓶だ火焔瓶だと叫び出し、犯人の逮捕が始まり私の前で白い上衣を着た若い女が私服警官に腕をつかまれ、つかまりかかつたところ党員がその警官を蹴飛ばしており、そのためその女は逃げてしまつた、被告人富井誠、同武藤和三郎及び池田一夫はいずれも演説者のまわりにいて他の仲間と共に「来た」とか「準備しろ」とか「やつつけろ」とか言つていた人に間違いない旨の供述記載
一、第十回公判調書中証人金沢七四郎の昭和二十七年七月十五日夜私は被告人大橋達が林屋百貨店のところで演説をしているのを見た、私がそこえ近づいて行つたとき私は被告人寺井勝夫と坂本潜の二人連れに擦れ違つた同人等は演説を聴いている群衆から三、四米位離れたところで誰かと何か互に小声で話合つていたようであつた、そのうち越前電気商会の方からサイレンの音が聞えて来たので見ると警察のキヤリヤーであつた、そのキヤリヤーが近かずくと同時に被告人大橋達は演台から降りて群衆をかきわけ林屋百貸店と安部菓子店との間の石山仲通りの方え行つてしまつた人は被告人大橋達の方を気をつけて見ていたが同人は演台から降りるときまわりの人に何か話をしているようであつた、そのうち私から向つて右側の林屋百貨店前の電柱のところにいた年令二十一、二才位の色白の坊ちやん顔をした男が手を振り上げキヤリヤーに向つてボールでも投げる恰好で何か投げたのを見た、振り返えつて見ると、キヤリヤーの幌のあたりが燃えており火焔瓶を投げたと直感し、すぐその投げた男を逮捕するためその男を追つた、その男は林屋百貨店と安部菓子店との間の石山仲通りを入つて行き三日月カフエーの前で一寸立ち止つて後を振り返り左え廻り錦町交番の通りに出た、私はその男が今井時計店前あたりに来たときその男の後から抱くようにして手をかけたところ同人はもがいて脱け出ようとして「売国奴」と二、三回大声で叫びもみ合つていたところ鳴海巡査部長が来、吉田という人も来て同人等の協力でその男を逮捕した旨の供述記載
一、第六回公判調書中証人鳴海良吉の昭和二十七年七月十五日夜錦町交番に行く途中八間通りの今井時計店前あたりで金沢巡査が一人の男ともみ合つていたその男はその時は判らなかつたが後になつて被告人富井誠であることが判つた旨の供述記載
一、第二十七回公判調書中証人郷路静子の昭和二十七年七月十五日午後十時頃越前電気商会のところで演説をしていた人が「会場を移す」と言つてそのグループの人達が皆林屋百貨店の方え行つたので私もその方え行つたら林屋百貨店と安部菓子店との十字街の中央より林屋寄りのところで前と同じ人が林檎箱を使つて演説をしていた、私も聴衆に混つてその演説を聞いていたが前に越前電気商会のところで肩を組んだ人達はこの時の演説のときもおりそのうち三、四人の男は林屋百貨店と安部菓子店との間の小路を背にしておりうち一人はプラカードを持つていた、その他グループの人が一人か二人私の前の方におり右横にも男の人がいた、又グループの中にいた女の人も私の前にいたのを記憶する、そして演説が十分位続いたと思う頃越前電気商会の方から警察の自動車がサイレンを鳴らして来た、その車は二台であつて先に小型の横に人が乗る車が一台、その後にトラツクのような自動車が一台来たのであるがその車が来たとき演説をしていた人が一寸手をあげて「やれ」というやうに言つた、のを聞いた、そしてその自動車が進行中四回位ぼんぼんと音がしてその車に火がつき二、三人の人が転つて火を消していたその後右百貨店附近で一人の男が逮捕された、なお私は同百貨店の瀬戸物部の入口附近の路上で四角な密柑箱位な風呂敷包一個あるのを見た、その風呂敷は紫系統の藤色で模様がありガソリン臭かつた旨の供述記載
一、第二十六回公判調書中証人塩崎礼一の昭和二十七年七月十五日午後十時頃私は大島雑貨店向い角で手宮大映劇場の方え走つて行くトラツクを見たそのトラツクが林屋デパートの十字街あたりに行つたと思う頃そのトラツクからぽつと火があがつたそして私が同デパートの瀬戸物部と電気屋との間にある家の軒下に入つて立止つた瞬間私の前の方にいた女の人が私のそばで、二、三人の男の人と買物篭のようなもののあるところで何かをやりとりしていた、それからその人達は林屋デパートの方え走つて行つたが直ぐその方向で人の手が挙つたと思つたら同時にトラツクがぼつと燃えあがつた、その女の人は身長五尺か五尺一寸位で黒つぽい服を着ており男の人達は白ワイシヤツの人が一人と背広を着ていた人ともう一人いたがいずれも眼鏡をかけていなかつた旨の供述記載
一、第三十二回公判調書中証人丸田勇の昭和二十七年七月十五日午後十時私は小樽市錦町二十五番地井上写真館え行く途中林屋デパート寄りのところで沢山の人が集つており若い人が密柑箱の上で演説をしているのを見た、その人の近くに今はやりのスキー帽の上にセルロイドのような薄いものをかぶせた茶色の帽子をかぶり国防色のような服を着た二十六、七才位の男がいた、数分間演説をしたと思つたら越前電気商会の方から十間通りを警察の自動車が二台続いて林屋デパートの方え走つて来たが演説をしていた人はその前その自動車が越前電気商会の前あたりに来たとき後を振り向いて「おい来たぞ」と合図をして箱から降りて群衆に混つてしまつた、そしてその自動車が配電会社手宮営業所の隣りの石蔵のあたりに差蒐つたとき運転台の後からぱつと火が出たが又安部菓子店前あたりから誰かがその燃えている自動車に向つて右手で野球ボールでも投げるような動作をしたと思つたらその自動車の中程あたりの火が強くなつた、その投げる動作をした人が私の近くに来たとき一人の私服の刑事が来てその人に向つて「貴様だな」と言つて三、四人の警察官と共にその人を逮捕した、逮捕された場所に帽子と三馬の印のついた日本手拭が落ちていた旨の供述記載
一、裁判官に対する証人鈴木雲海の尋問調書中昭和二十七年七月十五日夜越前電気商会のところで演説中騒ぎがあつてから演説者が箱を持つて安部菓子店の方え行つたので私もついて行つたら同菓子店附近で又演説が始まり聞いていたところサイドカーと警察のトラツクがサイレンを鳴らしながら越前電気商会の角を曲つて走てつ来た、すると演説者は「そら来たぞ」と言いその後方に前にいたと同じ男がいてその男は「用意せ」というようなことを言つてまわりにいた者を指揮していた、そのうちその自動車が林屋デパートの前あたりに来たときその前の方から火を出し火達磨になつて三人位の警官が車から転がり落ちて自動車は泉湯の前で止つたその際私はサイドカーがその場に来ているのに気がついたそして長靴をはいた制服の警察官が林屋デパートの前あたりの路上の火を踏み消しながら「逮捕だ逮捕だ」と指揮しており長井花屋の前あたりで一人の男が制服の警察官に逮捕されたのを見た旨の供述記載
一、第三十三回公判調書中証人永浜清一の昭和二十七年七月十五日午後九時過頃と思うが拓銀手宮支店の方からサイドカーを先頭にして警察のトラツクがサイレンを鳴らしながら走つて来て十間通りの林屋の方え行つたので私もその方え行つた、そして私が西曩薬局のあたりまで行つたとき私は林屋の前の電柱と街灯のついている小さい電柱の蔭になる下の方から警察のトラツクに向つて何か物が飛んだのを見た、飛んだ物はそのトラツクのテントの真中あたりに当つて直ぐ燃え出した、するとそれと同時に又安部菓子店の暗い方からも何か飛んで来てそのトラツクの前方エンジンのあたりに当つた、その自動車に乗つていた五、六人の警官の服に火がつきその人達は自動車から転がり落ちたのを見た旨の供述記載
一、第二十一回公判調書中証人熊坂静雄の昭和二十七年七月十五日夜私は林屋百貨店の隣りの安部菓子店前の道路の真中あたりで前に電気屋のところで演説をしていた人と同じ人が演説をしているのを見た私がその演説を聞いていたら拓殖銀行手宮支店の方から警察のサイドカーとサイレンを鳴らしながら警察のジープのような自動車が電気屋の角を曲つて私のいる方え走つて来た、その自動車が来たところ誰かが「来た」とか大声で叫び演説をしていた人はいなくなつた、私は自動車が来たので林岸百貨店の方え逃げたがそのときサイドカーの下の地面から火が出たのを見た、次いで私の左側恰度林屋百貨店前の電柱の附近にいた人が瓶のような白いものを警察の自動車に向つて投げつけたとたんジープのような警察の自動車の幌から火が出て燃えた、なお燃えた自動車から二人位の警官が降りて自分の体についた火を消していたし右百貨店附近で一人の人が三、四人の警官に捕まり、その後同百貨店の近くに突破器が落ちていた旨の供述記載
一、第二十五回公判調書中証人志田光応の昭和二十七年七月十五日夜私が手宮大映劇場の十間通りの坂の上の方でコンクールを聞いていたところ拓殖銀行手宮支店の方からサイレンの音が聞えて来た、そして坂の下の方を見たら手宮大映劇場の前あたりでぱつと火があがつたので私がその方え走つて行き林屋デパートの前まで行つたら警察の自動車が燃えておりその後方から警察官がばらばら降りて来てそのうち二、三人の人が火達磨になつて地上に転がつていた、そして私が林屋デパートの玄関前の電柱の横で警察の自動車を見ていたところ安部菓子店の斜右前四、五米位のところにいた男女のうち最初その男の人が形も大きさもビール瓶位の瓶を十米位離れていた警察の自動車に向つて投げた、私はその飛んで行くのを見ていたが投げた瓶はころころ転つてその自動車の下え入つて行つて燃えたするとその男のそばにいた女の人が形も大きさもサイダー瓶位の瓶を右手に持つて同じようにその自動車に向つて左脇腹のあたりから横に水平に振るような恰好で投げた、私はその瓶が飛んで行き自動車の横側から人の乗るところえ入つたのを見た私はその男と女の人が瓶を投げるときその横顔を見たが私の見たことのない人でありその男女が林屋デパートと安部菓子店との間の小路を三日月カフエーあたりまで逃げて行つたとき附近の人は「あいつが火焔瓶を投げたのだからつかまえろ」と言つてその後を多勢の人が追いかけて行つた。その後私は帰宅の途中午後十一時頃日浅と二人で常盤通りの方でバスの終点の方から常盤通りの方え向つて男と女の人が歩いて来るのを見た、その女は先程越前電気商会前の演説会場でビラを配つていた人であり男は被告人武藤和三郎であつたが間もなく同人等が逮捕された旨の供述記載
一、検察官に対する志田光応の第一回供述調書中、昭和二十七年七月十五日夜、私が林屋百貨店の入口附近の電柱のところで燃えている警察の自動車を見ていたところ私の三米位右斜横に立つていた女の人が懐から何か出すような恰好で右足を一歩前に出し体を前方に投げるようにしてサイダー瓶のようなものを燃えている自動車目蒐けて投げ入れた、女の人は瓶の口を持つて右手で胸のところから前の方に振るようにしてキヤリヤーに投げ入れたそのため車の火がぱつと明るくなつた私ははつと思つてその投げた女をよく見たら先程の演説のとき私にビラを呉れた高橋という女であつた、その女の外にその右脇にいた身長五尺二、三寸位の黒の上衣を着た油気のない長髪をばさばささせた男の人もサイダー瓶のようなものをキヤリヤーに投げつけた、その投げた男女とキヤリヤーとの距離は六、七米位あつたと思う、なお投げたとたん群衆が大声で「あつ、火焔瓶を投げた」「捕えろ」と言つたが投げた男女は投げつけるや否や脱兎の様に石山仲通りを逃げ出したその後高橋という女は捕まつたが同女は火焔瓶を投げたときも捕まつたときも同じ服装で縞の入つた上衣を着ており下は黒のようなスカートをはいていた旨の供述記載
一、裁判官に対する証人志田光応の尋問調書中右同旨の供述記載
一、第二十回公判調書中証人五十嵐光一の昭和二十七年七月十五日夜私が林屋デパートの入口附近え行つたところ前に電気屋のところで演説をしていた人と同じ人が演説を始めたが数分後サイレンの音が聞えて来てサイドカーとその後に警察の幌のかかつた自動車が越前電気店の角を曲つて近ずいて来た、そしてその自動車が演説をしている附近に来たときその自動車の幌が燃えた、演説をしていた人は自動車が林屋の近くえ来たとき群衆に混つてしまつたがその演説者の左側に黒い太縁のロイド眼鏡をかけた男がおりその男は自動車が近ずいて来たとき弥次馬の中に混つて自動車に向つて何か石でも投げるような恰好をしたがその後直ぐ自動車から火が出た旨の供述記載
一、第二十二回公判調書中証人須藤マサの昭和二十七年七月十五日夜、阿部菓子店の角あたりで喧嘩のような騒ぎがあつてからその附近で演説が始つた、すると手宮の銀行の方から消防ポンプのような音が聞えて来て自動車が来た、その自動車が私の店の横を通り花屋の前で止つたと思つて一寸見たらその自動車の幌のあたりが明るくなつてぱつと二回位燃えあがつた、その自動車は消防車でなく警察の自動車であつた旨の供述記載
一、第二十二回公判調書中証人美馬健一の昭和二十七年七月十五日夜私が林屋百貨店の電柱のところで演説を聞いていたらサイレンの音がして警察の自動車がやつて来た演説を聞いていた人達は散つてしまいその自動車が演説をしていた附近に来たと思つたら演説をしていた人のそばにプラカードを持つてスキー帽のようなナイロンの帽子をかぶつた若い男がいたのですがその男が二、三回手を振りその自動車の方向に物を投げるような恰好をした瞬間その自動車の幌が燃えあがつた旨の供述記載
一、第二十回公判調書中証人上口衛の昭和二十七年七月十五日夜林屋デパートの玄関の前で若い男が演説を始めたので聞いていたところ拓殖銀行手宮支店の方からサイレンの音が聞えて来て間もなく電気屋の方から警察の自動車が二台位私達の方えやつて来た、その自動車が演説をしている附近に来たとき演説をしていた人の横にプラカードを持つた眼鏡をかけた男の人がいたがその人が片手に何かつかんでその自動車に向つて二、三回投げる恰好をし何か投げたと思つた瞬間その自動車の運転台から火が出た、その後警察でその男を見せられたが私はその男が林屋デパート前で自動車に何か投げた男だと直ぐ判つた旨の供述記載
一、検察官に対する小田良正の第一回供述調書中昭和二十七年七月十五日午後十時頃林屋デパートの横の安部菓子店前でカメラを持つていた人を殴つたり蹴つたりしてから後その附近で演説が始つたすると越前電気商会の方でサイレンが聞え間もなくサイドカーが来た、私は群衆に押されて林屋デパートと安部菓子店との中間あたりに立つていたがサイドカーが私の前あたりに来たとき瓶のようなものが飛んで来てそのサイドカーに当りころころ転つた、その際私は林屋デパート入口附近の電柱の後にいた二、三人の共産党員のうちの一人が瓶のようなものを振りあげ投げつけようとしているのを見たとたん手宮電力会社の前に差蒐つたアメリカのジープのような車の後車輪の上あたりからぼうつと火の手があがつた、そして又今度はそのジープの座席の後方の地面からぼうつと火があがり、その車の中から体が火に包まれた警官が転ろげ落ちるようにして飛び降りて体についた火を消していた、その車は手宮館の角あたりで止まつたがサイドカーは手宮館と隣りの風呂屋との境附近で止まり胸に金線をつけた人が「捕えろ捕えろ」と怒鳴つていた、サイドカーに投げつけてからジープに投げつけるまでの間は二、三秒位であり、二発目と三発目との間は五、六秒位でなかつたかと思う又私の立つていたところからその車との距離は十二、三米位であつたと思う旨の供述記載
一、第十一回公判調書中証人枡本繁治の昭和二十七年七月十五日午後九時五十分頃私がサイドカーで拓銀手宮支店通りえ行つたところ越前電気商会前で黒い上衣を着た男が台の上に立つて演説をしていたので無届集会をやつているのだと思つて十間通りから八間通りに出て錦町交番え行きそこで本署えその旨電話で連絡しようと思つて受話器を取りあげた時突然外から共同通信社の清水記者が交番に飛び込んで来て「今、山元記者がやられている、殺されてしまうかも知えない」と言つて私の持つていた受話器を取つて警備課の矢野係長だつたと思うが同人に対し手宮大映劇場前で演説をやつているところを山元記者が写真をとつて暴行されているから直ぐ来てくれと話していた、それで、私も清水記者から受話器を受取り大至急キヤリヤーを現場に廻してくれと頼んだその後私は二、三回本署え催促の電話をかけたら本署ではキヤリヤーは今出たと言うが仲々来ないのでサイドカーで稲穂町のバス会社の前まで行つたところ北海ホテルの方から赤ランプをつけサイレンを鳴らしてサイドカーを先頭に警察のキヤリヤーが来てバス通りから拓銀手宮支店の角を曲つて十間通りの方え走つて行つた旨の供述記載
一、第十七回公判調書中証人清水金次郎の昭和二十七年七月十五日夜私が錦町交番にいたら毎日新聞社の小野記者が血相をかえて同交番に走つて来て山元記者がやられたと言うのでそこにいた警察官が本署にその状況を電話で連絡したが警察のキヤリヤーが仲々来ないので私は本署に応援が早く来るように電話をしたらキヤリヤーは行つたとの旨返事があつたと記憶する旨の供述記載
一、第十五回公判調書中証人菊地昭夫のキヤリヤーが出動したのは山元記者の暴行につき本署に報告があつたので出動したものと思う、なお山元記者が暴行をうけたという話のある前にキヤリヤーが出動することは決つていなかつたと思う旨の供述記載
一、第三回公判調書中証人今堀勝美の私は小樽市警察署に勤務し警邏交通課長をしているが昭和二十七年七月十五日午後十時頃坂本警備課長から手宮大映劇場前路上で無許可集会をやつており、そこで北海タイムス社の山元記者が写真をとつたとかいうことで殴打され負傷したらしいとの知らせをうけたので早速山岸巡査部長に対し右現場に行き無許可集会の取締と山元記者を殴打した犯人を捜査するようにと指示を与え、一方私も山岸巡査の運転するサイドカーに乗つて現場に向つた、その後山岸巡査部長の指揮するキヤリヤーが出動した、そして私のサイドカーが手宮大映劇場の手前に差蒐つたとき私の眼の前上の方がぱつと明るくなつたと同時に、「ことん」とぶつかつたような音がしたのでサイドカーを止めて集つた侭後の方を振り返えつたら山岸巡査部長外十二名の警官が乗つたキヤリヤーの上のテントが燃えており警官がキヤリヤーの横から飛び降りるのが見えた旨の供述記載
一、第四回公判調書中証人片山金一の私は小樽市警察署勤務の巡査であるが昭和二十七年七月十五日夜今堀警邏交通課長をサイドカーに乗せて手宮大映劇場の方え行つたが、恰度同劇場の手前の石山仲通りを過ぎる頃私の右膝の下あたりに「こつん」と何か当つたように感じ、三、四米位進んだと思つたとたん後の方が明るくなつたので振り返えつて見たら、六、七米位後方のキヤリヤーの右側のポンネツトから焔が出て燃えていた、私が本署え帰つて着ていた服をみたらズボンの右足の膝下右側に小指大の穴が七つ位あいており、その穴のふちが白くなつていた私は硫酸をかけられたものと思う旨の供述記載
一、第三回公判調書中証人山岸彰一の私は小樽市警察署勤務の巡査部長であるが昭和二十七年七月十五日午後十時頃本署で今堀課長から手宮大映劇場前路上で無許可集会をやつているとのことを聞きその取締のため石川巡査の運転するキヤリヤーに鳴海巡査部長、加藤、鹿取、紺野、二階堂、鈴木、佐々木、佃、清水、土山、藤井の各巡査と私が同乗してその現場に向つた、その際今堀課長は片山巡査の運転するサイドカーに乗つて先発した、私達の乗つたキヤリヤーが右大映劇場附近に差蒐つたとき突然キヤリヤーの右側前方と後方から殆んど同時に火が出た、なお、私はキヤリヤーから降りる際右手首と右頬、背中の三ケ所に火傷を負つた旨の供述記載
一、第六回及び第三十八回各公判調書中証人鳴海良吉の私は小樽市警察署勤務の巡査部長であるが昭和二十七年七月十五日夜本署で坂本警備課長から手宮で無許可集会があるから直ぐ行つてくれとのことで本署前にあつたキヤリヤーに同僚と共に乗つて出掛けた私達のキヤリヤーが手宮大映劇場の方え走つて行き恰度十間通りと石山仲通りとの交叉点に差蒐つたときキヤリヤーの右前方三間位の群衆の中に眼鏡をかけた被告人土方弘が右手に何か黒いものを持つて急に身をかがめて私等の乗つているキヤリヤーに向つて何か投げる恰好をしたと思つたとたん眼の前が急にぱあつと明るくなりキヤリヤーの車体に瓶でも当つてこわれるようながしやつという音がしそれと同時にガソリンに火がついたような音がして、キヤリヤーの運転台のエンジンカバーの右側と幌の右側中央部が同時に燃え出した私がキヤリヤーから降りて被告人土方弘を探したら安部菓子店の前あたりの人込みの中に同人がいたので私は同人を指し大声で「こいつが火焔瓶を投げたのだ」と叫んで同人を逮捕しようとしてもみ合つていたら被告人福沢嘉子がその逮捕を妨害したため一旦被告人土方弘はその場から逃げて行つたのを追つて林屋百貨店衣料品部の前で持本刑事の応援をえて同人を逮捕した旨の供述記載
一、第四回公判調書中証人加藤昭吉、鈴木義雄、紺野芳美、藤井茂の各供述記載
一、第五回公判調書中証人土山義明、清水博、佐々木薫の各供述記載
一、第六回公判調書中証人二階堂〓、石川幸夫の各供述記載
一、第七回公判調書中証人鹿取治三郎の供述記載
一、第五十回公判調書中証人佃司の供述記載
一、第十一回公判調書中証人持本繁治の昭和二十七年七月十五日夜、私は林屋百貨店附近で林キクヱに呼びとめられた、同人は私に「こんなものがあるが気持が悪いから持つて行つてくれ」と言うので見ると同百貨店の洋品部と瀬戸物部との間の路上に風呂敷包が一個置いてあつたその風呂敷は藤色で絞りのような模様がついておりその中には縦一尺五寸位、横一尺位のボール紙で作つたキヤラメル箱が入つており箱の中には茶褐色の液体が入つた薬瓶のような瓶が三本と壊れた瓶の破片が二個分位あり、壊れた瓶から茶褐色の液が流れ出て地面に滴れていた、その際右林よりチヨコレート色の革靴の片方丈けを渡して貰つたその後その靴は被告人寺井勝夫のものだということで同人に渡したなお翌十六日午前零時三十分頃西野薬店前で私は通行人から「こんなものが落ちていた」と言つてコルク栓のついた瓶の口の部分一個を受取つた、その通行人は私に対し瓶の口が落ちていた場所につき石山仲通りと十間通りとの交叉点の路上を指差しあそこに落ちていたと言つていた旨の供述記載
一、第十二回公判調書中証人林キクヱの供述記載
一、第三十八回公判調書中証人〓西進悦の私は昭和二十七年七月十五日夜八間通りと十間通りとの十字街の中央あたりで阿部、沢両巡査に協力して池田一夫を逮捕した旨の供述記載
一、第八回公判調書中証人阿部長道の昭和二十七年七月十五日夜私と沢巡査とで西川や被告人中島正利を錦町交番に連行しようとした際池田一夫が私達に組付いて来たので沢巡査等と共に同人を逮捕した旨の供述記載
一、第二十九回公判調書中証人田野勇の供述記載
一、第四十六回公判調書中証人亀石千里の供述記載
一、第三十五回公判調書中証人兼成蔵太郎の昭和二十七年七月十五日午後十時過頃林屋デパートの附近で警察の自動車から火が出た後同アパートの筋向いの道路の中央あたりに直径一尺位な石がありその石の上にねつとりとした魚油のような汚ならしい油が拡つており瓶の口の部分が一個落ちていた旨の供述記載
一、第十四回公判調書中証人本間正義、安部省吾の各供述記載
一、第二十九回公判調書中証人伊沢賢二の供述記載
一、当裁判所の昭和二十八年九月三十日附検証調書の記載
一、当裁判所の昭和二十八年十一月三十日附検証調書二通の各記載
一、当裁判所の昭和二十八年十二月十九日附検証調書の記載
一、検察官作成の昭和二十七年八月十日附検証調書の記載
一、司法警察員作成の実況見分調書の記載
一、小樽市公安委員会の演説会の届出有無についてと題する書面の記載
一、矢野係長の電話受理報告書(第一報及び第二報)二通の各記載
一、医師瀬戸国男作成の佐々木薫、土山義明、石川幸夫の各診断書の記載
一、医師山本順作成の鈴木義雄、紺野芳美、加藤昭吉、鹿取治三郎の各診断書の記載
一、医師鎌倉政市作成の清水博の診断書の記載
一、医師皆川武夫作成の山岸彰一、鳴海良吉の各診断書の記載
一、第五十一回公判調書中証人山本順の供述記載
一、鑑定人高田善久作成の鑑定書(昭和二十七年七月二十六日小鑑二百三十八号及び小鑑二百五十九号並に同月二十八日小鑑二百六十号を以て鑑定依頼)三通の各記載
一、鑑定人山本〓徳の鑑定報告書の記載
一、鑑定人村井資長作成の鑑定報告書及び同報告書訂正の件と題する書面の各記載
一、証人山本〓徳の尋問調書の供述記載
一、押収に係る鹿取治三郎の入院病症日誌一通(昭和二十七年領第七十八号の八十一、及び外来病症日誌一通(同号の八十二)の各存在とその記載
一、押収に係る写真原版フイルム二枚(昭和二十七年領第七十八号の一)林屋百貨店前路上撮影の写真一枚(同号の二)鹿取巡査(キヤリヤー内)撮影写真一枚(同号の三)現場写真一枚(同号の四)火焔瓶事件現場写真一枚No.1(同号の十三)同現場写真一枚No.2(同号の十四)同現場写真一枚No.3(同号の十五)同現場写真一枚No.4(同号の十六)ビラの写真綴一通(同号の四十一)写真綴(風呂敷、紙函、破損瓶)一通(同号の四十二)ノートの写真綴一通(同号の四十三)手紙の写真綴一通(同号の四十四)写真二枚(同号の七十四)の各存在
一、押収に係る火焔瓶三本(昭和二十七年領第七十八号の六の一乃至三)火焔瓶の破損した空瓶二本分位(同号の七)風呂敷一枚(同号の八)紙函一個(同号の九)火焔瓶(不発)一本(同号の十)硝子破片七袋(同号の十一)プラカード三本(同号の十二)火焔瓶の口の部分一個(同号の十七)盛夏服上下一着(紺野芳美の分)(同号の十八)盛夏服上下一通(鹿取治三郎の分)(同号の十九)帽子一個(同号の二十)盛夏服上下一着(鈴木義雄の分)(同号の二十一)盛夏服上下一着(加藤昭吉の分)(同号の二十二)盛夏服下一着(佃司の分)(同号の二十三)盛夏服上下一着(山岸彰一の分)(同号二十四)ステテコ一枚(鈴木義雄の分)(同号の二十五)皮長靴一足(鈴木義雄の分)(同号の二十六)ステテコ一枚(紺野芳美の分)(同号の二十七)ステテコ一枚(加藤昭吉の分)(同号の二十八)胴巻一枚(紺野芳美の分)(同号の二十九)褌一枚(紺野芳美の分)(同号の三十)シヤツ一枚(鹿取治三郎の分)(同号の三十一)キヤリヤーより油を拭取つた脱脂綿三個(同号の三十二)ビニロン製ポーラー作業帽一個(同号の三十六)三馬印手拭一本(同号の三十七)プラカード三本(同号の三十八)ザル付プラカード一本(同号の三十九)釘付棒一本(同号の四十)便箋八枚(文書記入のもの)(同号の五十三)ノート用紙二枚(文字記入のもの)(同号の五十四)手紙一通(同号の五十五)アジビラ十枚(同号の五十八)ワイシヤツ一枚(武藤のもの)(同号の五十九)上衣一着(武藤のもの)(同号の六十)紺セル上衣一着(中島のもの)(同号の六十一)ランニングシヤツ一枚(富井のもの)(同号の六十二)国防色上衣一着(土方のもの)(同号の六十二)丸首シヤツ一枚(土方のもの)(同号の六十四)白ワイシヤツ一枚(大原のもの)(同号の六十五)上衣ブラウス一着(高橋のもの)(同号の六十六)メリヤスシヤツ一枚(池田のもの)(同号の六十七)ワイシヤツ一枚(池田のもの)(同号の六十八)ワイシヤツ一枚(寺井のもの)(同号の六十九)眼鏡一個(富井のもの)(同号の七十)赤皮短靴一足(寺井のもの)(同号の七十一)の各存在
を綜合してこれを認め
判示第二の事実については
一、当公廷における被告人大橋達の私が第二回演説会場から林屋百貨店の方え行つたとき一人の男が福沢嘉子の両手をつかんでいたので私は私服警官が右福沢を逮捕しているのだろうと思つてその男に対し手を離せと言つたが離さないので右手拳でその男の顔面を一回殴つた、するとその男はつかんでいた右福沢の手を離し私に向つて来たので更に手拳で殴打した、その男はその後山元記者であつたことが判つた旨の供述
一、検察官に対する被告人大橋達の第三回供述調書中昭和二十七年七月十五日夜越前電気商会のところで私が演説中フラツシユが二回続けて光つたので私はやめろとか何をするのだとか怒鳴つたところ写真機を手に持つた男が手宮館の方え走つた私は自分の姿が撮られたと思つたので、あとでこれが証拠になつては困ると考え、そのフイルムを奪い取るつもりで同人を「追え」と言つたら私の後方にいた二、三人の党員が写真を撮つた人の後を追つて走つて行つたが私は演説を続けていた、すると池田一夫が来て私に対し「向うで演説をやつてくれ」と言うので演説会場を移すべく林屋デパートの方え行つたら同デパート横十字路附近で一人の男が西川(福沢嘉子)の手を引張つており同人は「この人はスパイだ」と叫んでいたそれで私はその男に対し「放せ」と言つたが同人が離さないので右手拳でその男の顔面を一回殴打した旨の供述記載
一、検察官に対する土方弘の第七回供述調書中、私は十五日の夜二度目の越前電気商会横での演説会のとき新聞記者がフラツシユをたいたことは気ずかなかつたが被告人大橋達が「逃がすな」と言つていたのを記憶するその後私が林屋デパートのところえ行つたところ同デパートの横通りで人が集つて何かわいわい言つており角のところで若い女がスパイだと言つて誰かに手を引張られていた旨の供述記載
一、検察官に対する土方弘の第八回供述調書中、昭和二十七年七月十五日午後十時頃越前電気商会のところで演説が始つてからは、私は警察の自動車が来ないかと思つて拓銀手宮支店の方ばかり注意していたが被告人大橋達が「追え」とか「逃がすな」とか「捕えろ」とか言つたので見ると同被告人の後にいた人が林屋デパートの方え走つて行つた旨の供述記載
一、第十五回及び第五十回各公判調書中証人山元芳一の昭和二十七年七月十五日午後九時過頃拓殖銀行手宮支店え行く通りと手宮大映劇場前の十間通りとの交叉点で被告人大橋達が演説をしていたので私はその模様を内光電球を使つて撮影したがそれと同時に演説者の背後のプラカードが立つていた方向から「こいつだ」と言つて聴衆をわけて私の方え来る人があつたので右大映劇場の方え走つて行き恰度同劇場の向いの菓子屋の附近え行つたとき後から首筋のあたりをいきなり手で殴打され写真機を持つた侭前に倒れたところ写真機を持つた手を更に誰かにプラカードで殴られ、そのうえ腰から背中にかけて何回も蹴られたり殴られたりした写真機は取られ起きあがつて一先ず菓子屋え逃げ込みその店を出たところ私の写真機を持つた白ワイシヤツの男がいたのでその男から写真機を取り戻して小沼記者に渡したとき若い女の人が私の方を見て「スパイ」と連呼していたその女は福沢嘉子である私は腹が立ちその女の腕をつかみ交番に行こうと言つてその腕を引張つたとき被告人大橋達が私の顎から胸倉にかけて手拳で突いた私は逃げ出し阿部洋品店の前あたりまで逃げた頃気を失つてしまい皆川病院で気がついたときは頭全体に包帯がしてあり頭が非常に痛く後頭部に擦過傷がありその傷が治るまで約一週間位かかつた、私を殴つたり蹴つたりした人は四、五人と思うが被告人大橋達だけは、記憶している旨の供述記載
一、第三十三回公判調書中証人阿部效也の昭和二十七年七月十五日夜知合の山元記者が私の家え逃げ込んで来た同人は誰かにやられたと見え負傷をしており、頭から血が流れており歩行困難なので店員達が部屋にかつぎ込んだ旨の供述記載
一、第四十回公判調書中証人見神義之の昭和二十七年七月十五日夜越前電気商会のところで演説中誰かが写真をとつたのでその人を誰かが追いかけて行き林屋デパートの角の菓子屋の前で捕えて喧嘩になり三人の男の人が写真をとつた人を殴つていた、そのうち一人の眼鏡をかけた三十才位の男が写真をとつた男の左側にいてその手をつかんで押さえひげの男が前から顔や頭を五つ六つ手で殴り若い男がプラカードの柄で腹のあたりを突いた、手を抑さえていたのは被告人武藤和三郎であつて手で殴つていたのは池田一夫である旨の供述記載
一、第三十一回公判調書中証人〓西力蔵の昭和二十七年七月十七日夜、林屋百貨店近くの安部菓子店のあたりで追かけて行つた四、五人のうち二人の人が一人の男の手を両方から抑さえ別の一人の人が抑さえられていた人の腹のあたりをプラカードの棒で下から突きあげていた突かれた人はぺたつと横になつたと思う旨の供述記載
一、第二十八回公判調書中証人小田良正の昭和二十七年七月十五日午後九時半頃越前電気商会のところで演説をしていたらぴかつと二回位光つたので写真をとつたと思つたらその写真をとつた人は手宮館の方え逃げたそして演説をしていた人の脇にいた四人位の人がその逃げた人を追つて行つた私がそれを見に行つたところ逃げて行つた人と三人位の人が蹴つたりして取組合をしていた旨の供述記載
一、検察官に対する小田良正の第一回供述調書中、昭和二十七年七月十五日午後十時頃越前電気商会のところで演説をしていたら私のいた後方が二回ぱつと明るくなつたので私は写真をとつたなと思つた、すると被告人大橋達が後を見て「捕まえろ」と言い、そこにいた共産党のものと思われる人達が直ぐ林屋デパートの方えかけ出し写真をとつた人を追いかけた私は喧嘩になるなと思つて直ぐその人達の後を追つて行つたところ林屋デパート横の安部菓子店前の角で先程追いかけて行つたものがカメラを持つていた人を手で殴つたり蹴つたりしており殴られた人は前かがみになりその場から石山仲通りの小路え逃げるようであつたが又捕つて党員に殴られていた旨の供述記載
一、第九回及び第二十八回各公判調書中証人沢和雄の昭和二十七年七月十五日夜越前電気商会前で被告人大橋達が演説をしていたので私は本署え連絡すべく手宮館え這入ろうとしたとき私のいた後方がぽつと音がして明るくなり写真のフラツシユをたいたのではないかと感じたそして越前電気商会の前の方で写真をとるなとかいう声がした、するとその音がした方向から一人の男が手に何か持つて手宮館の方え走つて来、それを五、六人の人が追いかけて来た私は手宮館に這入つて手宮館の窓から見たら向いの菓子屋の前に沢山の人がもみ合つておるので出てその群衆の方え行つたところ二、三人の人が手に何か持つて走つて来た男と思われる人の手を引張つたりなどして何か「やるな」とか言つて怒鳴つておりその傍に福沢嘉子がいてその男に向つて「この人はスパイだ」と言つていた旨の供述記載
一、第七回公判調書中証人田畑勝則の昭和二十七年七月十五日夜山元記者が右手にカメラを持つて走つて来た、その後を四、五人の男がプラカードなどを持つて追いかけて来た、山元記者は安部菓子店前でそれらの男に追いつかれ、行つて見たら白ワイシヤツの男が右手拳で山元記者の顎を突いていた、そして同人の右側にいた一人の男がプラカードでその後頭部を二回殴打した旨の供述記載
一、裁判官に対する証人郷路静子の尋問調書中昭和二十七年七月十五日夜越前電気商会のところで演説をしているとき誰かが写真をとつた、そのときその場でビラを配つていた女の人が「畜生」と言い演説をしていた人が「やつたのを追え」と言つたところ演説者の後にいた二、三人の人が林屋デパートの方え写真をとつた人を追つて行つたその人の中には被告人武藤和三郎がいたと思う旨の供述記載
一、検察官に対する小野昌雄の供述調書中昭和二十七年七月十五日夜第二回目の演説が始まつたというので十間通りの越前電気商会横に行つたところ、やせた白ワイシヤツの男が演説をしており、そのまわりに顔見知りの日共党員の被告人武藤和三郎及び池田一夫等三、四名が取巻いており、その向つて右側に女一人を混じえた四、五人の党員らしい者がスクラムを組んでいた、そのうち山元君がフラツシユをたき、私もたいたところ演説者の前にいた池田一夫等及びスクラムを組んだ連中が「写真をとるな」と言つて私と山元君を追いかけて来た、私は八間通りの方え逃げ途中振り向いたところ山元君が石山仲通りの林屋百貨店の角あたりで党員に捕まり写真機を取られて踏みつけられ殴られているのを見た旨の供述記載
一、検察官に対する会田末蔵の供述調書中、昭和二十七年七月十五日夜、越前電気商会のところで演説を聞いてゐるとぴかつと光りスパイだという声がして背の大きい人がカメラを持つて手宮館の方え逃げ、その後から労働者風の男が五、六人追いかけて来て安部菓子店附近で捕まりプラカードの板や手拳で顔のあたりを叩かれたりしてやられていた、カメラを持つた男は地面に倒れてしまい又起きあがつて石山仲通りの方え逃げたが再び安部菓子店のところえ来てそこで越前電気商会前で演説をしていた男に手拳で顔を数回殴られた旨の供述記載
一、検察官に対する佐藤宏の第一回供述調書中昭和二十七年七月十五日夜、安部菓子店前で写真機を持つて走つて来た男と追つて来た者と喧嘩になつたがその場に被告人大橋達及び池田一夫がいた旨の供述記載
一、司法巡査薄田節男作成の被告人の写真綴一通
一、第二十九回公判調書中証人伊沢賢二の供述記載
一、当裁判所の昭和二十八年九月三十日附検証調書の記載
一、検察官作成の昭和二十七年八月十日附検証調書の記載
一、医師皆川武夫作成の山元芳一の診断書の記載
一、第十六回公判調書中証人近藤兼雄の供述記載
一、押収に係る写真一枚(昭和二十七年領第七十八号の十四)及び写真一枚(同号の十五)の各存在
一、押収に係るワイシヤツ一枚(武藤のもの)(昭和二十七年領第七十八号の五十九)上衣一着(武藤のもの)(同号の六十)メリヤスシヤツ一枚(池田のもの)(同号の六十七)の各存在
によりこれを認め
判示第三の事実については
一、第六回公判調書中証人鳴海良吉の私は小樽市警察署勤務の巡査部長であるが昭和二十七年七月十五日夜、私がキヤリヤーに乗つて十間通りを手宮大映劇場の方え来たところ、キヤリヤーに火がつき燃え始めた、それで私は火焔瓶だなと直感し直ちにキヤリヤーから降りて群衆の中からキヤリヤーに向つて何か投げる恰好をした土方弘を探したら安部菓子店の前あたりの人混みのかげに同人がいるのを認めたそこで同人を指しながら大声で「此奴が火焔瓶を投げたのだ」と叫んで同人を逮捕しようとしたとき同人は驚いて逃げようと走つて行き、それを追いかけて同人ともみ合つていたら傍から若い女が「助けてやつて下さい」と群衆に向つて金切り声で叫んで私のバンドと右肘を後方から引張り土方弘の逮捕を妨害した、そのため土方弘は私の手から逃げてしまつた、私はその女の顔を見たら私が前から知つている西川という女であつた旨の供述記載
一、第三十八回公判調書中証人鳴海良吉の火焔瓶を投げた犯人として土方弘を逮捕しようとしたとき西川という女がその逮捕を妨害したことは間違いない、その西川という女は被告人福沢嘉子である旨の供述記載
一、第七回公判調書中証人田畑勝則の昭和二十七年七月十五日午後十時過頃林屋百貨店附近え行つたところ同店前の十字路の中心あたりで油のようなものが盛んに燃えていた、そして安部菓子店前の路上で鳴海巡査部長が一人の男を逮捕しようとして組合つており、同部長の後から同人の腕を引張つたり、腰のバンドを引張つたりしてその逮捕を妨害している女を見た、そこで私は公務執行妨害の現行犯人としてその女を逮捕しようとして同女の手首を両手で抑さえたとき鳴海部長は私の方を振り返えり「その女は西川だ」と言つた、そして同部長が逮捕しようとしている男は土方弘であつた旨の供述記載
一、第三十八回公判調書中証人田畑勝則の鳴海巡査部長が火焔瓶を投げた犯人として土方弘を逮捕しようとしたとき西川という女がその逮捕を妨害したことは間違いない、その西川という女は被告人福沢嘉子である旨の供述記載
一、第十一回公判調書中証人持本繁治の昭和二十七年七月十五日夜、私が安部菓子店の方え行つたら群衆の中から「あれだあれだ」という声が聞え一人の男が林屋百貨店横の石山仲通りの方え走つて行つた、そこで私もその方え走つて行つたら石山仲通りを二間位入つたところで二、三人の人がもみ合つていたので、見ると鳴海巡査部長が一人の男を逮捕しようとしていた、私は同部長に手伝つてその男に私の持つていた手錠をかけて逮捕した、その後本署え帰つて見たらその男は土方弘であつた旨の供述記載
一、検察官に対する土方弘の第十回供述調書中昭和二十七年七月十五日夜、私は安部菓子店附近で、いきなり後方から腕を廻して「こいつだ投げたのは」と言つて組みつかれた、私はその場で誰からか手錠をかけられて逮捕された、その人は後で判つたが持本刑事であつた旨の供述記載
一、当裁判所の昭和二十八年九月三十日附検証調書の記載
一、検察官作成の昭和二十七年八月十日附検証調書の記載
によりこれを認め
判示第四の事実については
一、第七回公判調書中証人田畑勝則の私は小樽市警察署勤務の巡査であるが昭和二十七年七月十五日夜、私が林屋百貨店附近に行つたところ十字路の中央あたりで油のようなものが盛んに燃えていた、そして私は安部菓子店前で鳴海巡査部長が一人の男を逮捕しようとしてその男と組合つており、同部長の後からその腕を引張つたり腰のバンドを引張つたりして同部長の逮捕を妨害している女を目撃した、そこで私はその女を公務執行妨害の現行犯として逮捕すべく、その女の右側から右手を小手返えしにした時鳴海部長は私の方を振り返えり「その女は西川だ」と言つた、そして同部長が逮捕しようとしている男は土方弘であつた、私が小手返えしにした西川の手を引き寄せようとした時後から腰のあたりを蹴られてよろめいた、それで今まで両手で西川を抑さえていたが左手の方を離し右手で西川を抑えながら後を振り返えつてみたところ右足で私を蹴つた恰好をして後向きになつて逃げようとしている男がいた、私はその男の横顔を見てその男が被告人寺井勝夫であることが判つた、そしてその時急に被告人寺井勝夫以外の人の力が加わつたように感じたとたん西川の手がぐつと私の手からはずれてしまつたそのときは既に私のまわりには土方弘も西川もいなかつた、一方被告人寺井勝夫は群衆の中え這入つて行つたが私はそれを見失うことなくその後をつけ、四、五米位行つたところで同被告人を一旦突いてよろめかせて、立ち直つて走つて行つたのを追つて斎藤履物店前の路上で他の警官の協力をえて同被告人を逮捕した旨の供述記載
一、第三十八回公判調書中証人田畑勝則の昭和二十七年七月十五日夜、鳴海巡査部長が火焔瓶を投げた犯人として土方弘を逮捕しようとしたときその逮捕を妨害した西川という女は福沢嘉子である旨の供述記載
一、第六回公判調書中証人鳴海良吉の昭和二十七年七月十五日の夜、安部菓子店の前あたりで私と土方弘とがもみ合つているとき顔見知りの西川という女が私のバンドと右肘を後の方から引張つたので土方弘は逃げてしまつたそのとき田畑巡査がその西川の腕を取つて引立てようとしており、それを被告人寺井勝夫と同大原英夫がその女を逃がそうとして田畑巡査の逮捕を妨害し、もみ合つているのを見た、被告人大原英夫は田畑巡査が前の方えよろめいたところ西川の片方の手を取つて人込みの中え引張り込もうとしていたそれで私は被告人大原英夫を長井花店の前あたりで二階堂巡査や制服の警察官等と共に逮捕した旨の供述記載
一、第三十八回公判調書中証人鳴海良吉の昭和二十七年七月十五日の夜、安部菓子店附近で土方弘を逮捕しようとしたときその逮捕を妨害した西川という女は福沢嘉子である旨の供述記載
一、第四十四回公判調書中証人白岩栄太郎の昭和二十七年七月十五日の夜林屋百貨店の附近で私服警官が一人の女の手を引張つており、その女は「皆さん助けて下さい」と言つていた、私はそのとき子供を連れていたし、帰ろうとしたときその女の人を引張つていた警官が私の附近でその手を放し「その人を捕えてくれ」と言いながら一人の白ワイシヤツの若い男を追いかけて手宮館の方え行つたのを見た旨の供述記載
一、検察官に対する白岩栄太郎の第二回供述調書中昭和二十七年七月十五日林屋デパートの角附近で警察の人のようなズボンをはいた男から腕をつかまれ同デパートの方え引きずり込まれた女は福沢嘉子に間違いない、なおその際福沢嘉子は小柄で白ワイシヤツの男が警察の人らしい男を蹴飛ばした隙にその場から逃げてしまつた旨の供述記載
一、当裁判所の昭和二十八年九月三十日附検証調書の記載
一、検察官作成の昭和二十七年八月十日附検証調書の記載
一、押収に係る白ワイシヤツ一枚(大原のもの)(昭和二十七年、第七十八号の六十五)ワイシヤツ一枚(寺井のもの)(同号の六十九)赤皮短靴一足(寺井のもの)(同号の七十一)の各存在
によりこれを認め
判示第五の事実については
一、第七回及び第八回各公判調書中証人田畑勝則の私は小樽市警察署勤務の巡査であるが昭和二十七年七月十五日夜安部菓子店前で鳴海巡査部長が土方弘を逮捕しようとして同人と組合つておりその組合つている同部長の後からその腕を引張つたり腰のバンドを引張つたりしてその逮捕を妨害している女を目撃した、そこで、私がその女を公務執行妨害の現行犯人として逮捕すべくその女の右手を小手返えしにした時鳴海部長は私の方を振り返えり「その女は西川だ」と言つた、私は小手返えしにした西川の手を引き寄せようとしたとき寺井勝夫から腰のあたりを蹴られたため西川は私の手から逃げてしまつた、その後私が手宮大映劇場のならびにある香生軒という床屋の玄関先に行つたとき、私の直ぐそばに西川がおり、西川のそばに被告人中島正利がいた、私は西川を公務執行妨害の現行犯人として逮捕すべく同人に対し西川だと言う心算で「西野だ捕まえてくれ」と怒鳴つたところ同人は「西野ではない」と怒鳴り返えしたので私は「西川だ捕まえてくれ」と言い直し再び西川の腕を捕まえて逮捕しようとしたとき被告人中島正利は後から西川を抱きかかえるようにしてその逮捕を妨害したそのとき西川は白のブラウスを着て黒つぽいスカートをはいていた旨の供述記載
一、第三十八回公判調書中証人田畑勝則の昭和二十七年七月十五日夜鳴海巡査部長が火焔瓶を投げつけた犯人として土方弘を逮捕しようとしたときその逮捕を西川が妨害したことは間違いない、その西川は福沢嘉子である旨の供述記載
一、第八回公判調書中証人阿部長道の私は小樽市警察署勤務の小樽市巡査であるが昭和二十七年七月十五日夜林屋百貨店の附近で鳴海巡査部長から「火焔瓶を投げた土方弘を逮捕しようとした際それを西川という女が妨害したから同女を逮捕してくれ」と命ぜられたのでその附近を捜査して歩いていたところ同日午後十時三十分頃と思う手宮大映劇場前の大通りと錦町交番に通ずる八間通りとの交叉店のところで西川という女と被告人中島正利及びもう一人の女がおり何か演説をやろうとしているのを見た、そのうち群衆がその人達を取巻いて香生軒という床屋の前え移動しその人達は石炭箱の隅に追込まれたような恰好になつた、そしてその場に同僚の田畑巡査、金沢巡査、沢巡査、高根巡査、〓西巡査がいたそこで私は西川に対し「交番に行こう」と言つて右手で同女の左手を引張つたが被告人中島正利は石炭箱と床屋との隅に背中をつけて中腰になり西川の後から同女を抱きかかえておつて離さないので同女の体は仲々私の方え寄つて来なかつた旨の供述記載
一、第三十八回公判調書中証人〓西進悦の昭和二十七年七月十五日の夜、十間通りと八間通りの十字街のあたりで被告人中島正利と西川が群衆のために香生軒という床屋の石炭箱の隅に押されて行き被告人中島正利は西川をその後から両手で抱えていた、その近くには同僚の田畑巡査、高根巡査、金沢巡査、沢巡査等がいたように思う、そして田畑巡査が西川に対し「西野交番に来い」と言つたら同人は「西野でない」と言い、更に田畑巡査が「西川交番に来い」と言い直し西川の左手首をつかんで引張つたが同女はそれを振り切つて「行かない」と言い被告人中島正利も「行く必要はない」と言つて同被告人は背中を石炭箱と床屋との隅につけて西川の背後から同女を両手で抱えて両足でふんばつていた、田畑巡査は群衆に向つて「連れて行くのだから前を開けてくれ」と言い私が警察手帖を群衆に見せて「警察の者だから前を開けてくれ」と言つたら群衆は前を開けてくれた、なお西川は福沢嘉子である旨の供述記載
一、第九回公判調書中証人沢和雄の昭和二十七年七月十五日午後十時二十分過頃、私が田畑巡査と共に西川を逮捕すべく香生軒前え行つたところ香生軒前の石炭箱の隅に西川と被告人中島正利がおり田畑巡査が西川を指し「西野だ」と叫んだところ西川は「西野でない」と言つていた、私と同僚の警察官が西川に手をかけて道路側に引出そうとしたが被告人中島正利は石炭箱の隅のところに背中をつけて中腰になつて両手で西川を後からしつかり抱きかかえておつて西川を逮捕しようとしても逮捕出来なかつた、その際西川は「警察はこんなひどいことをする」「売国奴」「スパイだ」などと叫んでいた旨の供述記載
一、第三十八回公判調書中証人沢和雄の西川という女は福沢嘉子である旨の供述記載
一、第二十八回公判調書中証人吉田宗吉の私は昭和二十七年七月十五日の夜手宮館の横にある床屋の入口附近で一人の巡査が女の人を引張ろうとしたところ、その女は「私は違う」と言つており一人の男が巡査がその女の人を捕まえようとしたのを、そうさせないように抑さえてその女を庇つていた旨の供述記載
一、第六回及び第三十八回各公判調書中証人鳴海良吉の各供述記載
一、当裁判所の昭和二十八年九月三十日附検証調書の記載
一、検察官作成の昭和二十七年八月十日附検証調書の記載
一、押収に係る紺セル上衣一着(中島のもの)(昭和二十七年領第七十八号の六十一)の存在
によりこれを認める。
よつて判示事実は、すべてその証明が充分である。
(法令の適用)
被告武藤和三郎、同大橋達の判示所為中、公務執行妨害の点はいずれも刑法第九十五条第一項第六十条に、傷害の点はいずれも各同法第二百四条第六十条罰金等臨時措置法第二条第三条に該当するところ、判示第一の公務執行妨害と各傷害並にその各傷害の所為はいずれも一個の行為にして数個の罪名に触れる場合であるから、それぞれ刑法第五十四条第一項前段第十条により結局最も重い被害者鹿取治三郎に対する傷害の一罪として処断すべく、これと判示第二の傷害罪は同法第四十五条前段の併合罪であるからいずれもその所定刑中懲役刑を選択し同法第四十七条本文第十条により犯情重い被害者鹿取治三郎に対する傷害罪の刑に法定の加重をなした刑期範囲内において被告人武藤和三郎を懲役七年に同大橋達を懲役四年に処し、被告人寺井勝夫同大原英夫の判示所為中公務執行妨害の点はいずれも各同法第九十五条第一項第六十条に、傷害の点はいずれも各同法第二百四条第六十条罰金等臨時措置法第二条第三条に該当するところ判示第一の公務執行妨害と各傷害並にその各傷害の所為はいずれも一個の行為にして数個の罪名に触れる場合であるからそれぞれ刑法第五十四条第一項前段第十条により結局最も重い被害者鹿取治三郎に対する傷害の一罪として処断すべく、これと判示第四の公務執行妨害罪は同法第四十五条前段の併合罪であるからいずれもその所定刑中懲役刑を選択し同法第四十七条但書第十条により重い被害者鹿取治三郎に対する傷害罪の刑に法定の加重をなした刑期範囲内において被告人寺井勝夫を懲役七年に同大原英夫を懲役五年に処し被告人中島正利の判示所為中、公務執行妨害の点は各刑法第九十五条第一項(なお判示第一につき同法第六十条適用)に、傷害の点は各同法第二百四条第六十条罰金等臨時措置法第二条第三条に該当するところ判示第一の公務執行妨害と各傷害並にその各傷害の所為はいずれも一個の行為にして数個の罪名に触れる場合であるからそれぞれ刑法第五十四条第一項前段第十条により結局最も重い被害者鹿取治三郎に対する傷害の一罪として処断すべくこれと判示第五の公務執行妨害罪は同法第四十五条前段の併合罪であるからいずれもその所定刑中懲役刑を選択し同法第四十七条但書第十条により重い被害者鹿取治三郎に対する傷害罪の刑に法定の加重をなした刑期範囲内において被告人中島正利を懲役四年に処し被告人福沢嘉子の判示所為中公務執行妨害の点は各刑法第九十五条第一項(なお判示第一につき同法第六十条適用)に、傷害の点は各同法第二百四条第六十条罰金等臨時措置法第二条第三条に該当するところ、判示第一の公務執行妨害と各傷害並にその各傷害の所為はいずれも一個の行為にして数個の罪名に触れる場合であるからそれぞれ刑法第五十四条第一項前段第十条により結局最も重い被害者鹿取治三郎に対する傷害の一罪として処断すべく、これと判示第三の公務執行妨害罪は同法第四十五条前段の併合罪であるからいずれもその所定刑中懲役刑を選択し同法第四十七条但書第十条により重い被害者鹿取治三郎に対する傷害罪の刑に法定の加重をなした刑期範囲内において被告人福沢嘉子を懲役四年に処し、被告人富井誠同高橋孝子同柴田正光同長尾陸奥雄同土方弘の判示所為中、公務執行妨害の点はいずれも刑法第九十五条第一項第六十条に、傷害の点はいずれも各同法第二百四条第六十条罰金等臨時措置法第二条第三条に該当するところ公務執行妨害と各傷害並にその各傷害の所為はいずれも一個の行為にして数個の罪名に触れる場合であるからそれぞれ刑法第五十四条第一項前段第十条により結局最も重い被害者鹿取治三郎に対する傷害の一罪として処断すべく所定刑中懲役刑を選択しその刑期範囲内において被告人富井誠、同高橋孝子、同柴田正光、同長尾陸奥雄を各懲役四年に処し同土方弘は改悛の情顕著であることを認め同被告人を懲役三年に処し押収に係る火焔瓶四本(昭和二十七年領第七十八号の六の一乃至三及び同号の十)は判示第一の犯罪行為に供せんとした物であり、火焔瓶の破損した空瓶二本分位(同号の七)硝子破片七袋(同号の十一)火焔瓶の口の部分一個(同号の十七)瓶の底一個(同号の五十)瓶の破片一個(同号の五十一)は判示第一の犯罪行為に供した物であつていずれも被告人等以外の者に属しないから各同法第十九条第一項第二号第二項によりいずれも被告人等よりこれを没収し、訴訟費用は刑事訴訟法第百八十一条第一項第百八十二条を適用し主文第六項掲記の通り被告人等にそれぞれ負担させることとする
(小樽市条例第七十号の違憲性の主張に対する判断)
被告人等及び弁護人等は小樽市条例第七十号は国民の基本的人権を蹂躙した憲法違反の条例で無効のものである従つて本件における警察官の無許可集会取締りは公務ではないから公務執行妨害罪は成立しない旨主張するので按ずるに元来小樽市のような普通地方公共団体が小樽市条例第七十号のようないわゆる条例を制定することが憲法上是認されているかどうかについて考えてみるに憲法第九十四条には「地方公共団体はその財産を管理し事務を処理し及び行政を執行する権限を有し法律の範囲内で条例を制定することができる」と規定し地方自治法第二条第二項には「普通地方公共団体はその公共事務及び法律又はこれに基く政令により普通地方公共団体に属するものの外その区域内におけるその他の行政事務で国の事務に属しないものを処理する」と規定し同条第三項第一号には「前項の事務を例示すると概ね次の通りである。但し法律又はこれに基く政令に特別の定があるときはこの限りでない(一)地方公共の秩序を維持し住民及び滞在者の安全、健康及び福祉を保持すること」と規定し同法第十四条第一項には「普通地方公共団体は法令に違反しない限りにおいて第二条第二項の事務に関し条例を制定することができる」と規定し同条第五項には「普通地方公共団体は法令に特別の定があるものを除く外その条例中に条例を違反した者に対し二年以下の懲役若しくは禁錮、十万円以下の罰金、拘留、科料又は没収の刑を科する旨の規定を設けることができる」と規定しているところから明らかなように普通地方公共団体がその事務に関し条例を制定することができるし、その条例中には条例に違反した者に対し法令に特別の定があるものを除いて二年以下の懲役若しくは禁錮又は十万円以下の罰金等の刑を科する旨の規定を設けることも亦憲法上認められているものというべきであつて普通地方公共団体である小樽市においてかかる条例を制定することは憲法に何等違反するものではない、そこで更に進んで前記小樽市条例第七十号が果して憲法に保障する国民の基本的人権を蹂躪するものであるかどうかについて考えてみるに同条例第二条には学生、生徒その他の遠足、修学旅行体育及び競技等通常の冠婚葬祭等の慣行の行事を除き道路その他公共の場所で集合若しくは集団行進を行うとするとき又は場所の如何を問はず集団示威運動を行うとするときは公安委員会の許可を受けなければならないと定めているが集会などが公衆の用に供せられる道路その他公共の場所で行われる場合には応々にして群衆心理により一般公衆の通行に支障を来たし或は個人的権利を侵害するなど公共の福祉を侵害する虞れがあるところから特定の場合を除きその事前に公安委員会の許可を受けねばならないとしたものであつて同条例第四条第一項は公共委員会は許可申請があつたときは集会、集団行進又は集団示威運動の実施が公共の安寧を保持するうえに直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合の外はこれを許可しなければならないとし但しその許可については官公庁の事務の防害防止についての事項、じゆう器きよう器その他の危険物携帯の制限等危険防止についての事項、交通秩序維持についての事項、集会集団行進又は集団示威運動の秩序保持についての事項、夜間の静ひつ保持についての事項、公共の秩序又は公衆の衛生を保持するためやむを得ない場所、進路又は日時の変更についての事項について必要な条件を附することができるものとし公安委員会は許可申請に対しては公共の安寧を保持するうえに直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合は許可しないことができるが然らざる場合には許可せねばならない建前をとり許可することを原則としたことが明らかであり、そして許可に条件を附する場合は公共の福祉のため必要且つやむを得ないと認められる特定事項に限られており、同条第三項には公共の安寧を保持するため緊急の必要があると明らかに認められるに至つたときはその許可を取り消し又は条件を変更することができると定め、許可を取り消し又は条件を変更する場合は公共の安寧を保持するため緊急の必要があると明らかに認められるに至つた場合に限られ、らざる場合においては、これを取り消し又は条件を変更することは許されないことになつている、しかして同条例第七条は然「この条例の各規定は第二条に定めた集団行進行進又は集団示威運動以外に集会を行う権利を禁止若しくは制限し又は集会、政治運動を監督し若しくはプラカード、出版物その他の文書図画を検閲する権限を公安委員会、警察職員又はその他の市の職員に与えるものと解釈してはならない」と規定し集会などが公共の安寧を保持するため緊急の必要あると明らかに認められる場合はこれを許すべきものではないが、さりとてこの目的以外において濫りにこれを干渉することは憲法によつて保障された国民の表現の自由を侵すことになり許さるべきものではないので特に本条においてその趣旨を解明したものである、そこで以上の法条と同条例第六条の罰則規定を合せて考えてみれば小樽市条例第七十号においては公共の場所で、集会、集団行進及び示威運動を実施するには前示除外例の場合のほか必ず公安委員会の許可を受けなければならないが公安委員会は許可申請があつた場合公共の福祉のため必要且つやむを得ないと認められる場合でないと不許可となし或は許可に条件を附し或は許可を取り消し又は条件を変更することができないことが明らかである、もとより憲法第二十一条第一項においては集会、結社及び言論出版その他一切の表現の自由を保障し、集会、集団行進及び示威運動等の団体行動の自由も亦憲法の保障するところであつて憲法第十一条及び第九十七条には基本的人権は侵すことのできない永久の権利として規定しているがこの基本的人権は憲法第十二条及び第十三条の規定の趣旨に鑑みて絶対無制限のものではなく公共の福祉のため必要且つやむを得ない最少限度の制限に服すべきことは多言を要しないところである、以上の説示により明らかなように小樽市条例第七十号は憲法が保障する国民の集会等表現の自由を不当に制限している違法なものというべきではないからこれを違憲とすることを前提とする被告人等及び弁護人等の右主張はその余の判断をまつまでもなく理由がないというべきである、
(正当防衛の主張に対する判断)
被告人大橋達の弁護人は判示第二の事実につき被告人大橋達の暴行は山元芳一の急迫不正の侵害に対し福沢嘉子の権利を防衛するため已むをえない加害行為であつて正当防衛であると主張するので按ずるに被告人大橋達同武藤和三郎及び池田一夫、福沢嘉子等が互に意思連絡のうえ越前電気商会附近で第二回目の無許可演説会を強行したこと、その際山元芳一がその演説状況を撮影したことは判示第一に認定の通りであつて、そのため判示第二に認定の如く右山元芳一が被告人武藤和三郎、同大橋達及び池田一夫等によつて暴行されたものであるしかして判示第二事実の各証拠を綜合すれば右暴行の際福沢嘉子が右山元に対し「この人はスパイだ」と連呼していたので山元は同女が被告人武藤和三郎及び池田一夫等の仲間のものと考え同女を交番え連れて行こうとしてその手を引張つたものであること、そこでこれを目撃した被告人大橋達が自分の仲間である福沢嘉子を救うため同女に味方して右山元に対し本件暴行を加えたものであることが認められる以上の事実を合わせ考えてみれば被告人大橋達の本件暴行は急迫不正の侵害に対し已むをえないでなした行為ということはできないから弁護人の右主張は採用しない。
(本件公訴事実中免訴となる事実)
(一) 被告人大橋達は昭和二十七年六月十一日夜小樽市役所議事堂において開催された劇団前進座の公演に関し同夜同市内で小樽市警察署に検挙された大原英夫等の釈放を要求するため小樽市公安委員会の許可を受けないで同夜十一時十分頃より十一時三十分頃迄の間同市富岡町二丁目小樽市警察署玄関前路上において須藤保等約百五十名がスクラムを組んで「ワツシヨイワツシヨイ」と掛声をかけてねり廻り集団示威運動をなすに際り「突込め突込め」と怒号し以て右集団示威運動をせん動したものであるとの公訴事実につき按ずるに右事実は昭和二十五年小樽市条例第七十号違反被告事件として起訴されたものであるが該条例は昭和二十七年十二月二十八日告示第二百十七号により昭和二十八年三月三十一日限り廃止されたので犯罪後の法令により刑が廃止されたときに該当するから刑事訴訟法第三百三十七条第二号を適用し、この点につき被告人大橋達に対し免訴の言渡をなすべきものとする。
(二) 被告人大原英夫は昭和二十七年六月十一日午後八時二十分頃小樽市花園町西二丁目安心堂薬局横道路上において同夜同市役所議事堂で開催された劇団前進座の公演に関し小樽市公安委員会の許可を受けないで約三十名を集めて集会を主催したものであるとの公訴事実につき按ずるに右事実は昭和二十五年小樽市条例第七十号違反被告事件として起訴されたものであるが該条例は昭和二十七年十二月二十八日告示第二百十七号により昭和二十八年三月三十一日限り廃止されたので犯罪後の法令により刑が廃止されたときに該当するから刑事訴訟法第三百三十七条第二号を適用しこの点につき被告人大原英夫に対し免訴の言渡をなすべきものとする。
(本件公訴事実中無罪となる事実)
(一) 被告人土方弘は被告人武藤和三郎及び池田一夫外数名と共謀のうえ昭和二十七年七月十五日午後十時頃小樽市錦町二十五番地先路上において北海タイムス記者山元芳一が被告人等の前記演説会(訴因第一)の状況を撮影したことを憤慨して同人の左手を捻じ上げ頭部顔面を拳やプラカードで殴打し或はプラカードの柄で胸部を突き更に同人を地上に倒した上頭部腰部を蹴飛ばす等の暴行を加えて人事不省に陥らしめ因て同人の顔面頭部及び左胸部に治療約一週間を要する打撲傷を負わせたものであるとの公訴事実につき按ずるに相被告人武藤和三郎、同大橋達等及び池田一夫が山元芳一に対しそれぞれ暴行を加え傷害を与えたことは判示第二に認定した通りである、そこで被告人土方弘が右相被告人等と共謀のうえ暴行を加えたかどうかについて判断する、当公廷における被告人土方弘、相被告人大橋達の各供述、検察官に対する被告人土方弘の第七回及び第八回の各供述調書の検察官に対する相被告人大橋達の第三回供述調書の各供述記載に第二十七回公判調書中証人郷路静子の昭和二十七年七月十五日午後十時頃越前電気商会のところで演説をしているとき誰かが写真をとつたところ演説者の後にいた二、三人の人が林屋百貨店の方え走つて行きその後暫らく演説をしていたが演説者は会場を移すと言つて林屋百貨店の方え行つた旨の供述記載並に第十五回公判調書中証人山元芳一の供述記載を合せ考えてみると前記認定の通り相被告人大橋達が昭和二十七年七月十五日午後十時頃越前電気商会附近で演説中偶々北海タイムス小樽支社の山元芳一がその演説状況を撮影したため相被告人大橋達に自分の姿が撮影され、後日これが証拠となることを虞れそのフイルムを奪いとる考えのもとに附近のものに対し「追え」と叫んだところ、その背後にいた数名のものが右山元を追つて林屋百貨店の方え走つて行つたが相被告人大橋達は暫らく演説を続けていたこと、被告人土方弘は当日は警察官に対し火焔瓶を投擲するいわゆる投下班に指名されており、そして無許可演説会取締のため警察官が出動した場合は同被告人が先ずその警察官に対し火焔瓶を投擲することになつていたため相被告人大橋達の演説中は終始その背後において待機していた事実が窺知されるしかしてその後演説中の相被告人大橋達が池田一夫より演説会場を他え移すようにとの連絡をうけ演台に使用していた木箱を持つて林屋百貨店の方え移動し、次いで被告人土方弘も亦林屋百貨店の方え移動した経緯が認められる、従つて被告人土方は相被告人大橋達が「追え」と叫んだ際右山元を追つて走つた数名のものの中には含まれていなかつたことが推認できるし、なお右山元に対する暴行は相被告人大橋達が「追え」と叫んだとき直ちに右山元を追つて行つた数名のものによつて先ず敢行され、その直後その現場に赴いた相被告人大橋達が判示の如く暴行を加えたことが認められる、以上の事実よりみて被告人土方弘が右山元に対し暴行を加えたとすれば相被告人大橋達が演説会場より右犯行現場に赴いたときかその直後かでなければならないと考えられるし山元を追跡して暴行を加えた数名中に被告人土方弘が含まれており共に暴行を加えたものとは思われない、もつとも第二十八回公判調書中証人高橋繁夫、同小田良正、第四十回公判調書中証人見神義之の各供述記載などによれば被告人土方弘が右山元に対し暴行を加えたのではないかと思われる点がないでもないが、これらの証拠は前掲の各証拠と比較検討するといずれも当裁判所において易すく措信することができない、結局被告人土方弘に対する本件公訴事実についてはその証拠が充分でなく犯罪の証明がないことになるからこの点につき刑事訴訟法第三百三十六条を適用し被告人土方弘に対し無罪の言渡をなすべきものとする。
(二) 被告人向坂公夫は被告人武藤和三郎、同寺井勝夫、同中島正利、同土方弘、同富井誠、同大橋達、同高橋孝子及び池田一夫等及び外数名と意思相通じ昭和二十七年七月十五日を期して無許可集会を開き警察職員がその取締のため近づいて来た場合には危害を加え治安を妨げる目的で之に火焔瓶(火焔手榴弾又はキユーリー爆弾)を投げつけようと企て同日夕刻頃より小樽市豊川町九十三番地手宮大映劇場前附近路上において数次の無許演説会を強行し同日午後十時十分頃被告人等の同所附近における無許可集会等を取締のため小樽市警察署勤務小樽市巡査部山岸彰一外警察職員十一名がキヤリヤーに同乗して同所附近に差しかかると被告人土方同富井同高橋等は右共謀にもとづき外数名と呼応して所携の爆発物である火焔瓶数個を右警察職員等に向つて投げつけて発火させもつて右警察職員等の公務の執行を妨害しその際右同乗の警察職員鹿取治三郎に対し加療約九週間を要する顔面頸部項部右胸部右上肢左手火傷(二度及び三度)加藤昭吉に対し加療約一ケ月半を要する右下肢右前膊左下腿顔面火傷(二度)鈴木義雄に対し加療一ケ月を要する右下肢右臀部右前膊火傷(二度)紺野芳美に対し加療約二週間を要する左臀部左手火傷(二度)清水博に対し加療約二週間を要する頭部顔面火傷(二度)山岸彰一に対し加療約一週間を要する顔面右前膊背部火傷(一度)鳴海良吉に対し加療約一週間を要する右前膊火傷(一度)佐々木薫に対し加療約一週間を要する右膝部擦過創項部火傷(一度)土山義明に対し加療約五日を要する左拇指右手掌擦過創顔面咽喉部火傷(一度)石川幸夫に対し加療約五日を要する右顔面火傷(一度)の各傷害を与えたものであるとの公訴事実につき按ずるに相被告人武藤和三郎等十二名が共謀のうえ無許可演説会取締のため出動した小樽市警察署勤務の警察官今堀勝美等に対し火焔瓶を投げつけてその公務執行を妨害し、その際警察官鹿取治三郎等十名に対してそれぞれ傷害を与えた事実は判示第一に認定した通りである、そこで被告人向坂公夫が本件につき相被告人武藤和三郎等十二名のものと共謀関係があつたかどうかの点について判断する、当公廷における相被告人武藤和三郎、同大橋達の各供述、第三十七回公判調書中証人岡島新一の供述記載及び検察官に対する相被告人大橋達の第三回供述調書、検察官に対する相被告人土方弘の第六回供述調書の各供述記載、検察官作成の昭和二十七年十一月七日附検証調書の記載、押収に係る切株一個(昭和二十七年領第七十八号の七十九)硝子破片(同号の八十)の各存在を綜合すれば被告人向坂公夫は日本共産党員であるところ昭和二十七年七月十三日小樽市南赤岩の〓寿貞方において相被告人武藤和三郎同大橋達及び坂本潜、保利某その他二、三の同志と会合し翌十四日午後二時半頃吉田首相が小樽駅を通過する際職安に登録している共産党員が各職安失業対策現場より大衆を動員しその他の小樽地区の共産党員と共に小樽駅に集合し吉田首相の乗車した列車が同駅に到着と同時に駅ホームになだれ込み、これに対し警察の取締があつた場合は警察官に火焔瓶を投擲すること、そのために火焔瓶を製造したこと、翌十四日小樽駅における組織的行動などについての謀議に参加したこと、そして右謀議にもとずき翌十四日相被告人中島正利、同福沢嘉子、同土方弘、同大橋達、同高橋孝子、同大原英夫及び池田一夫、坂本潜等と共に小樽駅に赴いたが吉田首相の来道がなかつたためその侭同駅を引揚げたことなどが認められ更にこれよりさき被告人向坂公夫は相被告人土方弘及び坂本潜等と共に昭和二十七年六月頃同市赤岩の山中において火焔瓶、ラムネ弾等の投擲実験を行つたことが認められる、然るところ被告人向坂公夫が判示第一に認定の如く同月十四日午後六時過頃同市豊川会館に集合し相被告人寺井勝夫を中心とする会合に出席して日本共産党創立三十周年記念行事として翌十五日手宮館附近において無許可演説会を強行しその取締のため出動した警察官に対し火焔瓶を投擲する対権力機関闘争について相被告人寺井勝夫等と話合つた事実は認められないのみならず、その際被告人向坂公夫が相被告人寺井勝夫より火焔瓶の投下班或は演説者として指名されていないし、主力の構成員として指名されたとの証拠もない、もつとも第十一回公判調書中証人持本繁治、第十九回公判調書中証人岡田輝麿の各供述記載によれば被告人向坂公夫が国防色のズボンを着用し同月十五日午後七時十分前頃同市錦町五十二番地先の能島通りを手宮館の方え向つて歩いていた事実、第二十五回公判調書中証人安藤正義の供述記載によれば被告人向坂公夫が同月十五日前頃、国防色のズボンを着用し所持していた事実がそれぞれ認められ、第二十五回公判調書中証人安藤正義、第十四回公判調書中証人本間正義、第十五回公判調書中証人菊地昭夫、第三十回公判調書中証人柴田利光、同柴田澄子の各供述記載、押収に係る火焔瓶液附着ズボン(昭和二十七年領第七十八号の四十六)の存在、及び鑑定人高田善久の鑑定書(昭和二十七年七月二十六日小鑑二百三十八号)の記載を綜合すれば小樽市警察署勤務巡査部長本間正義巡査菊地昭夫等が同月十六日午前五時三十分頃相被告人柴田正光方の家宅捜索をした際同家玄関の下駄箱上に白つぽいスキー帽のような帽子と共に向坂名義の証明書在中の同じく向坂と書かれたズツク製のカバンが置いてあつたがその帽子とカバンはいずれもその前日昼過頃何人かが持つて来て置いて行つたものであること、なお同家出窓近くの木柵に焼痕のある生乾きの国防色のズボン(昭和二十七年領第六十八号の四十六)がかけてあつたが即日これが押収された事実並に同所で発見押収された国防色のズボン(火焔瓶液附着のズボン)(昭和二十七年領第七十八号の四十六)の焼痕が硫酸によるものであつて、その国防色のズボンは被告人向坂公夫がその頃所持していた国防色のズボンに似ている点がそれぞれ認められる、そして以上の各事実に検察官に対する相被告人大橋達の第三回供述調書中、同月十五日午後七時頃越前電気商会附近で行われた第一回目の無許可演説会場に被告人向坂公夫がおつた旨の供述記載を綜合して考えてみると或は被告人向坂公夫が判示第一の事実に関して何等かの関係があつたのではないかと思われる点がないでもないが以上の各証拠をもつてしては未だ被告人向坂公夫が判示第一の犯行に際して相被告人武藤和三郎等十二名のものと共謀関係にあつたことを認めることはできない、勿論被告人向坂公夫が判示第一に認定した第二回及び第三回目の各演説会に参加していたこと並に直接火焔瓶を投擲したことを認める証拠もない、結局本件公訴事実はその証拠が不充分であり犯罪の証明がないことになるから刑事訴訟法第三百三十六条を適用し被告人向坂公夫に対し無罪の言渡をなすべきものとする。
(三) 被告人中野利夫は武藤和三郎、池田一夫、大原英夫、寺井勝未、中島正利、土方弘、富井誠、高橋孝子等が外数名と意思相通じ昭和二十七年七月十五日を期して無許可集会を開き警察署員がその取締のために近づいて来た場合には危害を加え治安を妨げる目的で之に火焔瓶(火焔手榴弾又はキユーリー爆弾)を投げつけようと企て同日夕刻頃から小樽市豊川町九十三番地手宮大映劇場前附近路上において数次の無許可演説会を強行し同日午後十時十分頃右武藤等の同所附近における無許可集会等の取締のため小樽市警察署勤務小樽市巡査部長山岸彰一外警察職員十二名がキヤーリーに同乗して同所附近に差しかかると土方、富井、高橋等は右共謀にもとづき外数名と呼応して所携の爆発物である火焔瓶数個を右警察職員等に向つて投げつけて発火させ、もつて右警察職員等の公務の執行を妨害し、右同乗の警察職員鹿取治三郎に対し加療約九週間を要する顔面頸部項部右胸部右上肢左手火傷(二度及び三度)加藤昭吉に対し加療約一ケ月半を要する右下肢右前膊左下腿、顔面火傷(二度)鈴木義雄に対し加療約一ケ月を要する右下肢右臀部右前膊火傷(二度)紺野芳美に対し加療約一ケ月を要する左臀部左手火傷(二度)清水博に対し加療約二週間を要する頭部顔面火傷(二度)山岸彰一に対し加療約一週間を要する顔面右前膊背部火傷(一度)鳴海良吉に対し加療約一週間を要する右前膊火傷(一度)佐々木薫に対し加療約一週間を要する右膝部擦過創項部火傷(一度)土山義明に対し加療約五日を要する左栂指右手掌擦過創顔面咽喉部火傷(一度)石川幸夫に対し加療約五日を要する右顔面火傷(一度)の各傷害を与えたものであるが、その際その情を知りながら右犯行現場附近の巡査派出所附近にあつて警察職員等の行動を監視し、もつてその犯行を容易ならしめたものであるとの公訴事実につき按ずるに武藤和三郎等十二名が共謀のうえ無許可演説会取締等のため出動した小樽市警察署勤務の警察官今堀勝美等十五名に対し火焔瓶を投げつけてその公務執行を妨害しその際警察官鹿取治三部外九名に対しそれぞれ傷害を与えた事実は判示第一に認定した通りである、そこで被告人中野利夫がその際その情を知りながら右犯行現場附近の派出所附近で警察職員の行動を監視したとの本件幇助行為について判断する、先ず鑑定人遠藤恒儀(昭和二十八年三月二十五日附)同伊木寿一(同年八月十四日附)同金丸義雄(昭和二十七年八月二日附)各作成の鑑定書の記載に押収に係を中野利夫より川辺政義宛の葉書(昭和二十七年領第八十五号の一)中野利夫自筆のメモ(同号の二)中野利夫自筆の便箋八枚(昭和二十七年領第七十八号の五十三)中野利夫自筆のノート用紙(同号の五十四)の各存在及びその記載によれば右押収に係る中野利夫より川辺政義宛の葉書、中野利夫自筆のメモ、中野利夫自筆の便箋八枚、中野利夫自筆のノート用紙の各記載はいずれも同一人の筆跡であることが認められる、そしてその筆跡が被告人中野利夫の筆跡であることは右押収に係る各証拠物たる書面と巡査部長能登谷宏作成の被告人中野利夫の氏名確認書、同被告人の本籍照会回答書、検察事務官渡辺勇作成の筆跡に関する報告と題する書面の各記載及び第三十六回公判調書中証人石井庄次郎の供述記載とによつて推認することができる、更に進んで被告人中野利夫の本件幇助行為について考えてみるに押収に係る昭和二十七年領第七十八号の五十三の便箋八枚、同号の五十四のノート用紙、及び第三十六回公判調書中証人石井庄次郎、同梁取利光、第四十五回公判調書中証人梁取タキ第四十二回公判調書中証人富井信市、第四十七回第四十八回の各公判調書中証人岡島新一、第十六回公判調書中証人今静行、第十七回公判調書中証人清水金次郎の各供述記載を綜合すれば被告人中野利夫は日本共産党員として北海道虻田郡狩太町において細胞活動に従事していたが昭和二十七年七月十日頃右狩太町より小樽市え来て爾来同市花園町東四丁目二十六番地富井誠方に起居し日本共産党小樽地区委員会の常任として党活動をしていたこと従つてその他の証拠により判示冒頭に認定した共産党員である武藤和三郎、富井誠等とは互に知合の仲であつたと思われることそして判示第一に認定した昭和二十七年七月十五日午後七時頃小樽市内手宮館附近における第一回目の無許可演説会に際して手宮館前通りに二名の監視員が配置されて警察官の行動を監視していたこと、その後同日午後十時頃前同所において第二回目以後の無許可演説会を強行した際は同市錦町錦町巡査派出所附近に同じく一名の監視員が張り込み、終始警察官の行動を監視しその動静を逐一右演説会主催者側に連絡していたことがそれぞれ窺知しえられる、なお被告人中野利夫が武藤和三郎等十二名の判示第一の犯行当夜その現場附近におつたのではないかと推認しえられぬわけではないが以上の証拠を綜合するも未だ右監視員として警察官の行動を監視していた者が被告人中野利夫であつて同被告人が右錦町巡査派出所附近において右の如く警察官の行動を監視し、その旨演説会主催者側に連絡して本犯の右犯行を容易ならしめたとの事実を認めることはできない、結局本件公訴事実はその証拠が充分でないので犯罪の証明がないことになるから、その余の点について判断するまでもなく刑事訴訟法第三百二十六条を適用し被告人中野利夫に対し無罪の言渡をなすべきものとする。
(判示第一の火焔瓶が爆発物取締罰則にいわゆる爆発物に該当するかどうかの判断)
爆発物取締罰則にいわゆる爆発物とは理化学上のいわゆる爆発現象を惹起するような不安定な平衡状態において薬品その他の資料が結合せる物体であつてその爆発作用そのものによつて公共の安全を攪乱し又は人の身体財産を傷害損壊するに足る破壊力を有するものというと解すべくここに「理化学上のいわゆる爆発現象」というのは鑑定人山本〓徳同村井資長の各鑑定書(鑑定人村井資長の鑑定報告書訂正の件と題する書面を含む)と証人山本〓徳の尋問調書により明らかなように爆発とは一般的に或る物体の体積が急激迅速に増大する現象をいい理化学的には或る物質が化学変化を起して発生迅速度が逸散速度を非常に大きく凌駕した速度で一時に多量の熱及びガスを発生し体積の急激な増大を来す現象を指称するものと解すべきである(昭和二十八年十一月十三日最高裁判所第二小法廷判決参照)そこで判示第一において被告人土方弘、同富井誠、同高橋孝子等が使用した本件火焔瓶が右罰則にいわゆる爆発物に該当するかどうかについて判断する、右被告人等が使用した火焔瓶は既に投擲破壊されてその原形をとどめないが判示第一の事実認定の前掲各証拠と鑑定人山本〓徳の鑑定の結果によればその原料、構造、装置はいずれも押収に係る火焔瓶四本(昭和二十七年領第七十八号の六の一乃至三及び同号の十)と同様のものであつて容量四百CCの投薬瓶であることが推認できる、そして同鑑定人の鑑定書及び証人山本〓徳の尋問調書によれば昭和二十七年領第七十八号の六の一の火焔瓶はその下層に濃度七十六パーセント体積四十五CC、重量七十六瓦の硫酸、上層に比重〇、七六、体積二百四十CC、重量百八十二瓦のガソリンを入れた容量二百七十CCの投薬瓶であり、同号の六の二の火焔瓶はその下層に濃度六十三パーセント体積七十CC、重量百十三瓦の硫酸、上層に比重〇、七五三、体積二百七十五CC、重量二百八瓦のガソリンを入れた容量三百八十CCの投薬瓶であり、同号の六の三の火焔瓶はその下層に濃度六十八パーセント体積六十二CC、重量九十九瓦の硫酸、上層に比重〇、七五、体積百五十五CC、重量百十六瓦のガソリンを入れた容量四百CCの投薬瓶であり、同号の十の火焔瓶はその下層に濃度六十六パーセント、体積二十三CC、重量三十六瓦の硫酸、上層に比重〇、七五、体積十二CC、重量九瓦のガソリンを入れた容量三百五十CCの投薬瓶であつて、右同号の六の一の投薬瓶の胴部の外側に約百十平方糎のザラ紙を二重に貼付してあるが、そのうち瓶の肌に密着して貼付された紙片には〇・〇四五三瓦の約十倍量の塩素酸カリウム粉末(純度九十七パーセント以上のもの)を糊をもつて附着させ更にその塩素酸カリウム粉末の附着した紙片の上部に同種同形のザラ紙を貼付したものであること、なお各瓶の口部に密栓を施した構造をもつものであることが認められる、しかして同鑑定書に記載の実験例によれば濃度六十八・二パーセントの硫酸、比重〇、七五のガソリン及び純度九十九パーセントの塩素酸カリウムを資料として硫酸百CCにガソリン三百CC、硫酸八十CCにガソリン三百二十CC、硫酸四十CCにガソリン三百六十CCの三種の混合液をそれぞれ容量四百CCの投薬瓶に充填し、それらにいずれも〇、五瓦の塩素酸カリウムを昭和二十七年領第七十八号の六の一の火焔瓶に貼付されている要領に従つてザラ紙を使用し各瓶の胴部に装置し、それらの火焔瓶をそれぞれ投擲破壊した場合においていずれもたちどころにガソリンの燃焼炎上が認められその化学反応をみるにいずれも瓶の破壊によつて内容液が流出し瓶の外側に附着する塩素酸カリウムに硫酸が化合し発熱反応を起して塩素酸を生じ、塩素酸は更に過塩素酸と酸化塩素とに分解生成され過塩素酸も爆発性を有するが酸化塩素は更に劇しい爆発性を包蔵し加熱又は有機物との接触により爆発分解を起して高温度の酸素と塩素とを放出しこの高温度の酸素がガソリンに触れてそれに引火して燃焼するのであるつまり火焔瓶を平坦な路面で殆んどすべての内容液を流出する程度に破壊するときは以上の化学反応が急激に進行し塩素酸カリウムの存在する個所より発火し撒布されたガソリンの全面に亘つて燃焼する、すなわち火焔瓶は通常かような作用を有することが認められる、以上の説示で明らかなように塩素酸カリウムと硫酸との接触により理化学上いわゆる爆発現象を呈するのであるが右火焔瓶に使用された〇、五瓦程度の塩素酸カリウムではその爆発現象も極めて局部的、小爆発に過ぎず単にガソリンに点火する作用を有するにとどまることが認められ、なお火焔瓶を路面に投擲破壊した場合におけるガソリンの燃焼状態をみるに通常焔の高さ及び燃焼範囲はガソリンの撒布状況に左右されるが概ねその高さは六十糎乃至八十糎でその範囲は径五十糎乃至七十糎、燃焼時間は四十秒乃至一分間、その燃焼速度は毎秒数十米であつてこの際の燃焼はただガソリンが燃焼炎上しているに過ぎず特に空気とガソリン蒸気の混合気体の爆発は見られないので、その燃焼は爆発的燃焼ということはできない、このことは火焔瓶を加熱した自動車のエンヂンカバーの代りに加熱したトタン板上に投擲破壊した場合においても亦同様であり、ただこの場合は塩素酸カリウムと硫酸との化学反応が急速に行われガソリンが速かに蒸発することも手伝つてガソリンの発火燃焼は瞬時に起り、かつ焔の高さは二米位に達し燃焼時間は約二十秒の短時間であつたに過ぎない、以上の説述によつて明らかなように右火焔瓶に装置された少量の塩素酸カリウムではガソリンに点火する役目を果す程度の爆発現象を呈するにとどまり、かような爆発自体によつて公共の平和を攪乱し人の身体財産を傷害損壊する破壊力がないことは明瞭である、もつとも火焔瓶の構造装置からみて塩素酸カリウムと硫酸との接触化合による爆発に因由してガソリンの燃焼が起り、その燃焼によつて人の身体財産を傷害、損壊しうることは勿論であり火焔瓶そのものの威力はかような破壊力にあるとみるべきであるがこれを判示第一に投擲破壊された本件火焔瓶について考えてみるも鹿取治三郎外九名の判示傷害が殆んどガソリンの燃焼による火傷とみられることからしても火焔瓶そのものの威力がガソリンの燃焼にあることが推察しえられる、しかしてこのガソリンの燃焼が理化学上いわゆる爆発現象でないことも亦明瞭である、従つて実験例に示された構造装置をもつ火焔瓶は爆発物取締罰則にいわゆる爆発物に該当しないものといわなければならない、しかして前記押収に係る火焔瓶は勿論、被告人土方弘外二名によつて投擲破壊された本件火焔瓶についても前記認定のようにそれに附着の塩素酸カリウムが〇・五瓦程度のものではこれ亦爆発物取締罰則にいわゆる爆発物に該当するものということはできない、よつて判示第一の犯罪事実に対応する訴因のうち爆発物取締罰則違反の点については、いずれも罪とならないから判示第一の当該被告人等はいずれも無罪であるが右は判示第一の犯罪事実とそれぞれ刑法第五十四条第一項前段の関係にあるものとして起訴されたと認められるのでこの点につき特に主文において無罪の言渡をなさない。
よつて主文の通り判決する。(昭和二九年六月三〇日札幌地方裁判所小樽支部)